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音楽イメージ小説
Jumping note -3-

 翌日、学校が終わってから、再び病院に向かった。
 逃げ出したことが、若干気まずかった。だけど、そのままにしておく訳にもいかない。勇気を出して病室のドアを開けると、
「よかった、絵里沙! 心配したんだよ!!」
 ふゆちゃんは予想に反して、わたしの姿を見ると泣き出しそうな震える声で言った。
「昨日、突然どっかに行っちゃったからどうしたのかなと思ったよ!」
「ごめんね、ふゆちゃん」
 わたしが謝ると、ふゆちゃんは苦笑して、
「ううん、こっちこそごめんね。いきなり、変なお願いしちゃってさ。あれ、なしね。忘れて」
「そのことなんだけど……」
「なに? どうしたの?」
 わたしは、息を一回深く吸った。そして、
「ふゆちゃん、ごめんね、今はうたえない。だけど、必ず、いつか必ずふゆちゃんの前でうたうから。それまで、待っててくれる?」
 ゆっくり、噛み締めるように言った。
 ふゆちゃんの反応が気になって、様子を伺う。ふゆちゃんは最初、きょとんとした表情を浮かべていたけれど、やがて微笑んで、言った。
「うん、楽しみにしとくね」

 わたしは、十一月に行われるコンクールに出場することにした。
 地元のホールで行われるローカルなコンクールだけれど比較的規模は大きい。審査員の先生も有名な人が集まっている。参加資格は「アマチュアであること」だけ。
 このコンクールで優勝するには、どれだけのレベルが必要か分からない。今のわたしでは、全然歯が立たないかも知れない。それでも、もし、このコンクールで優勝することができれば、その時こそふゆちゃんの前でうたうことにすると決めたのだ。優勝するほどの歌ならば、きっとふゆちゃんに向けてうたう価値があると思うから。
 だから、わたしは何としても優勝するしかない。優勝しなければ、ふゆちゃんとの約束を守れない。
 その決意だけを糧にして、わたしはそれまで以上に鍛錬に励んだ。

 十一月のある日。わたしはいつものように、ふゆちゃんの病室で午後のひとときを過ごしていた。
 ふゆちゃんの体調は日に日に悪くなっていった。体も痩せて、抗がん剤の副作用か髪の毛が少し減った。いまや、数ヶ月前の可愛らしいふゆちゃんの面影は微塵もなかった。
 それでも、ふゆちゃんは何とか生きようと頑張っていた。体中に痛みが蔓延り、息をするのも辛い状況で。その生きる意志が何に由来するのかは、わたしは知らない。ただ、できれば。それがわたしとの約束を信じてくれているからだとしたら、わたしは嬉しい。
 そして、その約束は明日には果たすことができると思う。
 明日は待ちに待ったコンクールの日だ。そのコンクールの結果によって、約束を果たせるかどうかが決まる。
 ふゆちゃんにはコンクールを受けることを教えていない。ふゆちゃんは、コンクールに優勝したら、きっと喜んでくれるはず。いつか、講堂で歌ったときのように。そのサプライズのために、あえて秘密にしてあるのだ。
「どう、したの? 絵里沙、なんだか、機嫌がいいみたい」
 ふゆちゃんは掠れた声で言った。最近は本当に喋るのも辛そうだった。だけど、ふゆちゃんはよく喋った。もう残り少ない時間を惜しむように……。
「え、そう見える?」
 明るい口調で答える。
「うん、何かいいことがあるの?」
「今はまだ分からない。けれど、きっとうまくいく気がするのっ!」
 わたしがそう言うと、ふゆちゃんはにっこりと笑って、
「そうなんだ。何があるかは知らないけど、絵里沙がうまく行くように、ここから応援してるね」
「うん、ありがとう!」

 コンクール当日は、生憎の曇天だった。重苦しい灰色の雲が、空高く積み重ねられていた。吐く息も白い。もしかすると雪が降ってくるかもしれないな、と思いながら、会場に向かった。
 会場にはわたしと同じようなコンクールの参加者がぞろぞろと集まってきていた。女の子、男の子、年配のご老人までいる。コンクールは部門が分かれていて、わたしは「中高生・女子の部」にエントリーされている。制服姿の女子学生たちが、わたしのライバルになるわけだ。不安そうなメガネの女の子、自信満々な綺麗な女の子、いろいろな女の子がいる。見た目では、その子の歌声は分からない。わたしよりもうたえるのか、うたえないのか。
 ううん、他人なんて本当は関係がない。わたしがうたえばそれで済む話だから。他人がどれだけうたえようと、今のわたしの前には何の意味も持たない。わたしは他人と勝負したい訳じゃない。ただ、ふゆちゃんに伝えられる歌をうたえればいいだけなのだ。

 その女の子たちと共に、控え室に入った。
 そこは、薄汚れて、何もない部屋だった。本当に何もなかった。ただ、人数分のパイプ椅子が並んでいるだけ。お菓子が置いてあるとか、ジュースが置いてあるとか、そういったことを期待していた私にとっては酷い肩透かしだ。もっとも、ローカルなコンクールだ。これくらい、不思議ではない。
 控え室で、自分の出番を待つ。あと十人。あと九人。あと八人……。胸のメトロノームは、カチカチとリズムを刻む。
 恐怖はない。緊張もない。だが、楽しい訳でもない。わたしは、自分でも名前をつけることができない感情に捕らわれていた。その感情は透明無色。無味無臭だとも思う。そもそも、“感情”と評していいのかも怪しい。
 とにかく、わたしの中に、その“何か”は初めて生まれた。今までこんなことなんてなかったのに。
 カチ、コチ、カチ、コチ。
 メトロノームは、一定のリズムを綴る。その透明な感情は、メトロノームに合わせて脈動する。うん、多分、大丈夫。この感情がわたしの歌の邪魔をすることはないと思う。
 あと三人。あと二人。あと一人。
 そして、出番が来た。
「エントリーナンバー、十八番! 守口絵里沙さんです! どうぞっ!」
 司会の、どこかで見たことがある歌手(名前は忘れた)がわたしの名を告げた。舞台袖で控えていたわたしはそれを合図に、舞台の壇上に上がる。
 どくん。
 心臓が一つ、波打った。目の前には、数ヶ月前と同じたくさんの観客たちがいた。違うのは、彼らの目線だった。わたしに挑みかけるような、鋭い眼光。ああ、この人たちは違うと悟る。
 学校の講堂で歌った時とはまるで違う緊張感が生まれた。それは観客が違うこともあるけど、それだけじゃない。わたしの心構えの違いだ。
 あの時は、ただ歌えれば良かった。ただ、喉から声を出すだけで良かった。それで、勝手に観客たちは感動してくれたから。
 今日は違う。決定的に、あの時とは違う。ふゆちゃんとの約束を果たすために。
 ふゆちゃん。わたしの大好きなふゆちゃん。
 雨の中、相合傘をして登校した日。
 オレンジ色の世界、一緒に自転車を押して帰った日。
 アイスクリームを食べた。服を買いに行った。くだらない冗談を言い合って、大声で笑った。
 その全ての思い出を、この歌に込める。
 メトロノームは変わらず動いている。あの“何か”も、一緒に。
 わたしは大きく息を吸い込んで、
 わたしの旋律を刻み始めた。

 しかし、世界は優しくなかった。
「……うぅ……」
 瞳には涙が溢れていた。堤防は堪えきれずに、既に大きな粒が止め処なく頬に流れ出している。
 この涙は、残酷なほど綺麗に燃える夕日が目に沁みたからではない。
 わたしは、悔しくて、不甲斐なくて、情けなくて、泣いていた。とぼとぼと、帰路につきながら。
 全員の歌唱が終わり、コンクールの結果発表となった。
 手応えは正直あった。わたしは今までで最高の歌をうたうことができたはずだった。
 それでも、
「優勝は――」
 届かなかった。
 わたしは、二位。たくさんの拍手と喝采と、それ以上の惨めさを持って、その順位を受け入れた。
「っ……」
 わたしは、自分の中で決めた目標を達成することができなかった。『優勝したら、ふゆちゃんの前でうたう』。それを果たせなかった。
 二位という結果は立派だろうと自分でも思う。だけど、一位以外では意味がない。二位とか三位とか、そんな中途半端な評価しかされなかったということは――わたしの想いを届けることができなかったということだろう。そんな歌をふゆちゃんに送っても、仕方がない。
「わたし、どうしたらいいんだろ……」
 ふゆちゃんとは約束をしている。その約束を履行できないなんて……。
 心の中に混乱を抱えた竜が暴れまわっていて、今にも張り裂けそうだ。
 いや、落ち着け。落ち着くんだ、わたし!
 まだきっとチャンスはある。そう、まだ、ふゆちゃんは生きているんだから。
 ふゆちゃんがまだ、この世界に存在している間に……。
 わたしはそう考えながら、自宅の玄関のドアを開けた。その瞬間、お母さんの涙で滲んだ声が響き渡った。
「絵里沙っ! 冬ちゃんが……!」

 病室に駆け込むと、ふゆちゃんのお母さんが、泣きながらベッドの側に立っていた。お母さんだけじゃない。お父さん、そしてお医者さんと看護師さん……。みんな、表情が暗い。まるで、親しい人と離別してしまったときみたいに……。
「絵里沙ちゃん、ふゆが、ふゆが……」
 お母さんがわたしに抱きついてきた。お母さんの涙が、わたしの頬を伝う。
 その隙間から、
 ベッドの上の、
 顔に白い布を掛けられた、
 ――――。
「う、そ……」
 今まで夢と希望のリズムを刻んでいた心の中のメトロノームが、止まった。
 “何か”と共に。


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