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音楽イメージ小説
Jumping note -2-

 その日、珍しくふゆちゃんが学校を休んだ。珍しく、というか、わたしが知る限りふゆちゃんが学校を休んだことはないはず。
「若咲さん、どうしたの?」
「分からない」
 クラスメートがわたしに訊いてきたけれど、むしろそれはわたしが知りたい。

 わたしも、そしてふゆちゃんもまだケータイ電話は持っていないので、連絡を取ることができない。十月に入って、肌寒い日も増えてきたし、多分、風邪でもひいたんじゃないかなと思う。だから、それほど心配はしていなかった。
 それが数日も続くと、流石に不安になってくる。担任の先生も何も言ってくれないから、何の情報も回ってこない。本当に、風邪なの?
 心配になったわたしは、ふゆちゃんの家に電話してみることにした。
『もしもし、若咲ですが』
 電話に出たのは、ふゆちゃんのお母さんだった。何回か会ったことがあるので、声で判断することができた。
「こんにちは。わたし、守口です。ふゆちゃんと同じクラスの……」
『ああ、ああ、絵里沙ちゃん? こんにちは、お久しぶりね』
 そう言うお母さんの声に、いくらか疲労が滲み出ているのに気付いた。疲れている……?
「はい。あの……ふゆちゃん、いらっしゃいますか? ここしばらく、学校に来てないので、心配になって連絡したんですが」
 お母さんが、受話器の向こうで息を呑むのが分かった。それで、事態は深刻だということを理解する。
「あの、ふゆちゃんは?」
『絵里沙ちゃん、冬はね……』

「ごらんの有様」
 ふゆちゃんは病室のベッドに横たわりながら、自嘲するように呟いた。
「ふゆちゃん、いったい、どうしたの? どこか悪いの?」
 ぱっと見では外傷は見られない。だとしたら、どこか内臓が悪いんだろうか? 例えば、ストレスで胃に穴が開いたとか。そんなレベルの、どこにでもありそうな病気だと思った。……思いたかった。
 薄い色素の病院着を着たふゆちゃんの、以前よりも痩せこけた皮膚を見て、それがただの幻想だということを思い知らされる。
「がん、だってさ」
 あまりに淡々と言うので、最初、その言葉の意味を理解できなかった。
「がん……って」
「肺がんだってさ。正直にお医者さんに言ってもらえて、よかったよ」
 わたしは混乱する。肺がん。がん、ってどんな病気だったっけ? たしか、わたしのお祖父ちゃんもがんで……。
 がん? あの、悪性腫瘍?
「本当に、がん、なの?」
「あのお医者さん、とても真面目そうに見えたよ。そんな冗談を言うような人じゃないと思うな」
「治るんだよね?」
 お医者さんが「がん」と告げるからには、そのがんが根治の可能性があるからじゃないのだろうか? どこかに転移していて、根治が不能の場合、そんな簡単に患者に事実を告げることなんて……。
「分かんない」
 ふゆちゃんは、首をふるふると横に振った。
「とりあえず、来週に手術だって。そのあとは、多分、抗がん剤じゃない?」
「治るんだよね?」
 もう一度確認する。だけどそれは、確認というよりは、ほとんどわたしの願望だった。
「分かんないよ。でも、きっと大丈夫。ちゃんと根治すると思うよ」
 ふゆちゃんは何処か悲しげに笑った。

 手術が終わってから数日後に、わたしは再びふゆちゃんのお見舞いに行った。
 ふゆちゃんは先週見たときとは比べ物にならないくらいに痩せこけていた。腕からは細長いチューブが伸びている。多分、これが抗がん剤なんだろう。
「ふゆ……ちゃん?」
「ごらんの有様」
 先週と同じように、ふゆちゃんは言った。その笑い方も、頬が痩せている所為で、痛々しい。その痩せた顔の中では、くりくりとした大きな瞳だけが目立ってしまい、少し不気味に感じてしまった。
「手術、失敗したの?」
 この悪化具合は尋常じゃない。手術に失敗したか、あるいは……。
「分からない。お医者さんは何も言ってくれたなかった。抗がん剤も『一応』だって。だけどね、自分の体のことだから、自分で分かることもある。私はきっと、助からない」
 ぽつん、と抗がん剤が落ちる音がした。
 手術に失敗したか、あるいは、どこかに転移していて、最初から助かる見込みがなかったか。それは分からない。ただ、どちらにしろ、大差はない。
 わたしは何も言うことができなかった。あまりに唐突すぎて、自分の心の整理がつかない。一所懸命にばらばらになった心の破片をつなげようとするけれど、どうしてもまた壊れてしまう。
 『私はきっと、助からない』というふゆちゃんの言葉を素直に信じることはできない。信じたくない。だけど、ふゆちゃんの現在の様子を見ていると、その言葉が現実として重くのしかかる。
「あと何ヶ月かは、分からないけどね。もって、二、三ヶ月じゃないかな?」
 二、三ヶ月……。わたしは三ヶ月前のことを思い出してみる。今は十月なので、七月。期末テストや臨海学校や夏休みが始まった月。本当についこの間のでき事のようだ。
 つまり、二、三ヶ月なんてあっという間で。
 ふゆちゃんの命も、あっという間に消えてしまう。
「ふゆちゃん……」
 その事実が、わたしにはとても恐ろしくて。わたしは気付かないうちに、ぼろぼろと涙を流していた。今までにないくらい、大きくて熱い涙だった。
「なんで絵里沙が泣いてるのよ」
 苦笑するふゆちゃん。むしろ、なんで? なんでそんなに平気でいられるの? あともう少しで死んじゃうかも知れないのに。わたしがふゆちゃんの立場なら絶対に今の状況に耐えられない。
「だって、だって……」
「私なら大丈夫よ。ねぇ、絵里沙。お願いがあるんだけれど」
「……なに?」
 ぐず、と鼻をすする。
「うたってくれない? 私、絵里沙の歌が聴きたい」
「え……」
 突然のお願いに、わたしは言葉を失う。
「ねぇ、うたって?」
 わたしを見つめてくるふゆちゃん。その大きな黒目に射抜かれて、私は息をすることができなくなる。
 うたう? 今、この場所で、死に向かっていっているふゆちゃんに対してうたう?
 緊張のあまり、喉を鳴らす。不気味なほどに、その喉の音は大きく鳴り響いた。でも、涙は相変わらず止まってくれない。
 わたしの歌を、ふゆちゃんは聞きたいと言っている。ふゆちゃんは、わたしの歌が大好きだから。だけど、わたしの歌にそれほどの価値はあるのだろうか?
 たかが、趣味でうたっているわたしの歌が。
 死に逝く人のどこに、響くというのだろう?
「絵里沙?」
「ごめん、無理、だよ」
 握る手が、そして声が震える。
「わたし、うたえない。ふゆちゃんのために、うたえないよ。わたしのうたは、ふゆちゃんには届かないっ!」
 居た堪れなくなって、わたしは病室を飛び出した。後ろから「絵里沙っ!」って呼ぶ声が聞こえたけれど、聞こえないフリをした。

 そのまま病院を走り抜けて、夜の帳が降り始めた街を駆け抜けて、川原までたどり着いた。秋の川原は肌寒く、人気のなさも相まって、とても寂しい印象を受けた。西の夜空には、ぽつんと孤立した宵の明星が浮かんでいた。
 息が荒い。いつもジョギングをしているので、体力には自信があるけれど、今は体力というよりも精神力の方が疲れていた。
 わたしは逃げ出した。ふゆちゃんの前から。ふゆちゃんに向かってうたうということから。
 だって、届く訳がない。わたし如きの歌が。
「……う、うぅ」
 涙が頬を伝っていく。今度の涙は悔し涙。さっき、病室で流した涙とは性質が違う。
 物心がついたときから、歌をうたうのは好きだった。お母さんからもおばあちゃんからも「上手ね」と褒められて、本当に嬉しかった。中学校に入学すると、見よう見まねでボイストレーニングなどを始めた。そして、先日、ふゆちゃんのお陰で人前でうたうこともできた。
 ただ、それだけ。
 本当に、ただそれだけなんだ。
 もしかすると、それでも普通の人ならわたしの歌で喜んでくれるかもしれない。そして実際に喜んでくれた。
 だけど、本当のプロだとか。
 音楽を真摯に楽しもうとしている人とか。
 ……今、死に向かっていっている人とか。
 そういった人たちの心を揺り動かすだけの力は、わたしの歌声には存在しない。わたしの歌は、空気の振動以上の意味を為さない。それはわたしが一番よく分かっている。だから、悔しかった。
 届けたい。響かせたい。大好きなふゆちゃんがこの世界に生きていて良かったと思ってくれるような、そんな歌をうたってみたい!
 どくんどくんと、心臓の音がわたしを打つ。それはまるでメトロノームみたい。夢と希望を刻む、メトロノーム。この力強い振動がわたしを動かす力になる。
 今のわたしには、うたえない。
 だけど、将来はどうか分からない。
 ゆっくりと顔を上げて、わたしは決意の火を灯した瞳で空を睨みつけた。


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