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音楽イメージ小説
Jumping note -4-

 若咲冬は、この世を去った。意識が混濁している中、お通夜もお葬式も終わり、既に逝去してから三日が経っていた。
 ふゆちゃんはその日の十四時ごろ、容態が急激に悪化したらしい。施せる手術はすべて終わらせ、抗がん剤でガンの進行を遅らせていた状態だったので、為す術はなかった。後は、痛みをできる限りなくして、楽に逝かしてあげることができるよう、努力をするだけしかなかった。
 奇しくも、その時間はわたしが舞台に上がって、歌をうたっていたころだ。わたしが歌っているときに、ふゆちゃんは痛みと苦しみで苦悶の表情を浮かべながら、逝ったのだ。
 結局、わたしの歌を、ふゆちゃんに聴かせてあげることができなくなった。もし、今日優勝していたとしても……。いや、それは違う。もし、わたしが優勝できるほどの歌を……遠く離れるふゆちゃんに届くような歌を、うたうことができたなら、きっとふゆちゃんの容態が悪化することはなかったはずだ。
「……ふゆちゃぁん……」
 わたしは自分でも気付かないうちに、ふらふらといつかの川原に辿りついていた。この三日間、まるで夢遊病のようだ。
 夕刻。既に太陽は傾きかけ、夜の青が世界の端を支配しようとしていた。気温もぐっと下がっている。コートは着ていないけど、不思議と寒さは感じない。心が麻痺している。
 川原のほとりに、足から崩れるように座り込んだ。
 あまり豊かな水量を保てていない川の流れをぼうっと見つめながら、あの時の誓いを思い出す。
 あの時、この場所で動き出した心のメトロノームは、もう動いていない。
 わたしは、もう――――。
「あの――」
 背後から女性に声を掛けられた。
「大丈夫ですか? どこか調子が悪いところでもあるんですか?」
 どうやら、わたしがコートも着ないでこんなところでこんな時間に座り込んでいることを心配してくれたようだ。
「あ、いえ――」
 わたしはうまく返答できずに、振り返った。涙で滲んでおり、なおかつ夜目も利かないわたしはその人の顔をうまく認識できない。
「大丈夫、です。ちょっとつらいことがあった、だけですから」
 自分で言って、胸が苦しくなった。ちょっと、つらいこと……。そんな単純な問題じゃないよ。
 と、その女性はわたしのことをまじまじと見つめていた。な、なに?
「あの何か?」
「守口――絵里沙さんですよね?」
 いきなり名前を呼ばれて、びっくりした。どうして、わたしの名前を知っているの?
「私、先日のコンクールで審査員を務めていた者です」
「あ、」
 ごしごしと涙を袖で拭う。夜の青さにも慣れてきて、目の前の女性を認識できるようになる。
「指揮者の……」
 わたしが言うと、その人は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「そうそう。覚えていてくれて、嬉しいわ」
 舞台に上がる前、当日の審査員の先生たちをチェックした。審査に携わったのは全部で十人で、音楽に関わる色々な職種の人が集まっていた。
 この女性はそのうちの一人、有名な指揮者で海外での実績もある人だった。名前は確か、高瀬さん。すごく、綺麗な女性。まるで天使みたい。
 その高瀬さんはすっ……と、右手を差し出してきた。わたしはその右手の意味を図りかねて、困った顔を浮かべる。
「準優勝、おめでとう。本当に凄かったよ」
 ああ、そうか。わたしは、コンクールで、準優勝したんだ。
 何の価値もない、準優勝。
 右手を差し出そうとして、躊躇する。
「? あの、どうかした?」
 わたしの冴えない表情と動作を見て、高瀬さんが尋ねてくる。
「ありがとうございます。でも、申し訳ないんですが、わたしにとって準優勝は意味がないんです。それに……」
 ぐっと唇をかみ締める。そして、搾り出すように言った。
「もう、うたうの、やめようと思っていて」
「……え?」
 高瀬さんは驚いて、目を見開いた。コンクールで準優勝した人間が「うたうのをやめる」なんて言い出したら、そんな顔をするのも不思議ではないだろう。
「ど、どうしてっ?」
「届かなかったから」
 わたしの歌を、一番届けたかった人に。
「もともと、楽しくてうたっていたんです。うたうのが好きだから、うたっていた。そんな単純な話だったんです。
 だけど、状況は変わった。わたしの歌を届ける必要が出てきて、そしてわたしも届けたいと思いました。だから、わたしはあのコンクールに出場したんです。そこで優勝することができれば……わたしの歌を届けることができると思ったから」
 高瀬さんはわたしの話を神妙な面持ちで聞いてくれている。
「でも、わたしは結局優勝することができませんでした。そして、届けたい人はもうこの世にはいません
 ふゆちゃん。ふゆちゃんは、遠いところに行ってしまった。
「……もう、前みたいに楽しんでうたうことはできないと思います。うたう意味は失われてしまいました。だから、もう、うたえません」
 また、涙が零れそうになった。
「そう……」
 高瀬さんは悲しそうに顔を伏せた。わたしのことを同情してくれたからだと思った。だけど、

「守口さん、自覚していなかったのね」


 口調は温かったけれど、わたしは背筋が凍った。その言葉の意味が分からなくて。だけど、心の奥底で“何か”が疼いて。
「自覚……?」
「審査の際、私はあなたを一位に推したわ。他の誰よりも、あなたは圧倒的だと思ったから。あなたに比べたら、他の出場者は、幼子のようだったわ。  惜しかったのは、あなたの力を私以外の審査員が感じ取ることができなかったこと。あなたの力がそれまでだったと思っていたけれど、無自覚だったのなら……」
「あ、あの、いったいどういうことですか?」
「とても、かわいい人ね。目がクリッとしていて」
 いきなり、そんなことを言われても。
「あなたが、大事に想っている人。まだ、亡くなる前かな? 一緒に登下校している……」
 焦る。いったい、高瀬さんは何を言っているの? それって、ふゆちゃんのこと?
「高瀬さん、ふゆちゃんと会ったことが……?」
 尋ねると、高瀬さんはふるふると首を振り、
「ないよ。でも、分かる。守口さんがそんな風に歌っていたから。想いを込めた歌で、世界を強制的に構築したから」
 わたしの、想い?
「確かに、あの時はふゆちゃんとの想い出をうたおうとしました。でも、そこからそんなに具体的なことまで」
「分かるわ。それが、あなたの歌。あなたの力。音符に自分の想いを載せ、相手の中で世界を構築する。わたしは、あなたの歌を聴いて、あなたが冬さんと一緒に過ごした日々を幻視した」
 高瀬さんが瞼を閉じる。何か、大切なものを思い出すように。
「普通、歌っていうものの解釈は、歌詞や曲調に拠るものだと思う。そして、その歌を受け取って、聴いている人たちがそれぞれの解釈をして、理解する。だから、人によって捉え方はそれぞれ違う。励起される感情も、描写される世界も、揺らぐ。
 だけど、あなたの歌はその揺らぎを許さない。圧倒的な存在感を持ってして、すべての人に同じような感情を抱かせ、世界を構築し、描写することができる。それってね、本当に凄いことなんだよ? 少なくとも、長い間音楽に関わってきて、そんな歌をうたう人は初めてだった。守口絵里沙さん、あなたは本当に化け物だよ。歌をうたう、化け物」
「化け物……」
 なんて言い草だと思う。だけど、不思議に、嫌な気持ちにはならなかった。
 歌をうたう化け物。確かに凄そう。だけど、
「それでも、優勝できなかった。そんな風に感じたの、高瀬さんだけなんでしょう? 他の審査員とか観客とか、そういう人たちにわたしの世界を届けることはできなかった。それにそんなこと、今まで言われたことも……」
 高瀬さんはうーんと唸ると、
「それは、気持ちの変化があったからじゃない? 今までは、楽しかったらよかったんでしょう? それが、大事な人に届けたいという心の変化があった。だから、あなたの中で才能とか能力とか、とにかくそんな“何か”が芽生えたんだと思う」
「“何か”?」
 それはきっと。
 あの控え室で生まれた、無色透明の感情のようなもの。あれは感情じゃなかったんだ
 あれがあの時あの場所で生まれたのは偶然じゃなかった。そして、あれが生まれたからこそ、高瀬さんにわたしの歌が届いたんだ。
「結局、才能とか能力とか、そういったものは持っているだけじゃ意味がない。決意とか覚悟とか……うまい言葉が思いつかないけれど、とにかくそんな気持ちがないと、能力って発露しないと思う。才能は大事。努力はもっと大事。だけど、才能も努力も『覚悟』がないと成立しない。
 この世界に生きている全ての化け物たちは何かしらの『覚悟』を決めて、その上で自分の能力を自覚しているわ。もしあなたが自身が化け物であることを認識したとしたら……今度こそ例外なく、すべての人間たちにあなたの歌を届けることができると思う」
 世界的に実績のある指揮者が太鼓判を押している。それはつまり、事実なんだろう。
 わたしは、歌をうたう化け物。世界で一番の、歌うたい。
 うたう意味が失われている、化け物。
 皮肉でしかない。
「たとえ、わたしが実際に化け物で、世界で一番を目指せる実力があったとしても……。さっきも言いましたけど、わたしにはうたう意味が失われている。だから、自分の能力を自覚することも、世界一を目指すことも、したくないんです」
「うたう意味が失われているのなら、新しく作り出せばいい」
 高瀬さんはそう言うと、わたしの肩をぐっと掴んできた。爪が食い込んで、少しだけ痛い。
「どういう……意味ですか?」
「冬さんに届けるためにうたっていた。それが、あなたの意味だった。だけど、もう冬さんはいない。届ける相手がいない。
 なら、届ける相手を創出すればいい。あなたなら、それが可能なはずよ。現に、わたしの中に『若咲冬』は生まれ、今でも生き続けている」
 穏やかな笑みと共に高瀬さんは言う。
 冬ちゃんは、高瀬さんの中で生き続けている。わたしがふゆちゃんのことを想ってうたい、それによって高瀬さんの中に『ふゆちゃん』を刻み付けたからだ。言葉を変えれば、ふゆちゃんを生き返らせたとも言える。
 ふゆちゃんは存在する。高瀬さんの心の中に、そして、わたしの歌を聴く世界中の人たちの中に。たとえ、肉体が朽ち、火葬されて塵となり灰となり、土に還ったとしても。
 若咲冬の精神は、存在は、概念は、存在し続けることになる。わたしが、うたう限り。それなら、
「あなたには、謳う意味があると思う」
 わたしには、謳う意味があると思う。
 最初は楽しかったから。その次は、大事な人に届けるために。
 これからは……その大切な人の存在を繋げるために。
 わたしは謳う。この世界を音符で満たす。国境を越え、時間を越え、わたしの歌によって、世界に若咲冬を遍在させる。
「――ありがとうございます、高瀬さん。わたし、謳い続けます」
 今まで涙に埋もれていた瞳を精一杯見開いて、声高々に宣言した。
「わたしが化け物だというのなら、それを認めます。認識します。それによって、聴いている人に若咲冬を励起させることができるのなら。
 そして、必ず。わたしはいつかの約束を履行します。ふゆちゃんが生きているこの世界に、わたしの歌を届けます」
 ふゆちゃん。ちょっと待っていてね? ちょっと形は違うかもしれないけれど、『いつか必ずふゆちゃんの前で謳う』から。
「期待、しているわ」
 にっこりと高瀬さんは笑う。天使のように、可憐な笑みだった。
「そろそろ、私、行くね。いつかまた、出逢えることを願っているわ
「こちらこそ……。必ず、“そちら”に行きます」
 バイバイ、と彼女は手を振ると、夕日が落ちる空の方に歩いていった。
 世界には夜が訪れ始めていた。残酷で苛烈な夜が。ここから先、わたしが歩む道は熾烈を極めるだろう。だけど、もう止まらない。
 再び、覚悟を決めよう。たとえどんな犠牲を払おうと。ふゆちゃんを謳い続ける『覚悟』を。
 わたしは、化け物なのだから。

 そして、わたしはもう一度、壇上に立っている。
 ふゆちゃんが亡くなって、そのために全校集会が開かれたとき。わたしは生徒会に「謳わせて欲しい」と懇願した。
 過去に一度謳ったことがあり、それがそれなりに盛況だったという実績もあって、わたしの願いは簡単に叶えられた。
 目の前には、数百人の観客。みんな、目を輝かせてわたし、守口絵里沙を見ている。それはわたしが前回うたった時の印象を引きずっているからだ。
 その印象は、今日は無駄に終わる。だって、もうあの時のわたしとは違うんだから。そして、あの時とは謳う目的そのものが違うんだから。
 わたしは今日、この歌を通じて、ふゆちゃんとの約束を履行する一歩を踏み出す。
 息を吸い込む。イントロが流れ始める。美しく、弾むようなメロディー。わたしが一番好きな歌だ。
 わたしの中にある“何か”はメロディーに呼応して、動き出す。わたしはそれを認識する。
 広い広い講堂に、わたしの歌声が響き渡る。
 ふゆちゃんを謳う歌を。
 生徒たちは、わたしとふゆちゃんの関係など、知らない。だけど、わたしは歌によって、それを伝えたい。わたしとふゆちゃんの八年間の記憶を。想い出を。伝えられなかった言葉を。わたしはそれらを音符に乗せて、発信する。そして、世界を構築する。
 そこに、前回うたったときのような、曖昧性はない。気持ちよさもない。胸が苦しくて、張り裂けそうで……。だけど、歌声はあの時より、ずっと伸びやかで。跳ねるように、世界を駆け回る。羽をつけた音符は重力を振り切って、自由に空を飛んでいた。
 もう、誰にも止められはしない。わたしはこれから「歌を謳う化け物」として、歩んでいく。この歌を世界中に届けていく。
 再び動き出した、心の中のメトロノームにあわせて、わたしの歌声はどこまでもどこまでも高く、昇っていくのだった。

-fin-


-3-