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音楽イメージ小説
Jumping note -1-
 

これは、わたし、守口絵里沙が化け物になる前のお話。



 目の前には、数百人の観客がいた。
 わたしは舞台の上。みんな、目を輝かせてわたし、守口絵里沙を見ている。
 息を吸い込む。イントロが流れ始める。美しく、弾むようなメロディー。わたしが一番好きな歌だ。
 さぁ、うたおう。弾む音符に、わたしの歌声を乗せよう。その心地よさに身を委ねよう。
 そうして、わたしの歌声が講堂いっぱいに響き渡る。わたしは喉を揺らし、空気を揺らし、みんなの鼓膜を揺らす。
 さして広くない、わたしの中学校の講堂。そこに集まった全校生徒を前に、わたしは歌をうたっている。
 みんな、わたしの歌を聴いて、思い思いの反応を示している。ある人は肩を揺らす。ある人は手拍子をとる。その反応の、何と気持ちの良いことか。楽しい! その反応が、さらにわたしの歌声を伸びやかにする。
 やがて一曲歌い終わると、わたしはぺこんとお辞儀をした。その瞬間に、拍手の嵐。わたしの歌を認めてくれた! ああ、本当に嬉しい! わたしはもう一度、深々とお辞儀をして、舞台袖に下がっていった。

「今日のコンサート、大成功だったね」
 キーキーと、四つの車輪が転がる。わたしと、もう一人。若咲冬(わかさき ふゆ)は、自転車を押しながら、とぼとぼ中学からの帰り道を歩いていた。
「コンサートって、集会で一曲うたっただけじゃない」
 わたしは呆れた。あれをコンサートと言うのなら、歌手さんたちのコンサートは何になるの?
「いいのいいの。一曲うたっただけで、絵里沙のすごさがみんなに伝わったんだから」
 ふゆちゃんはそれがまるで自分のことかのように、嬉しそうな口調で喋る。
「でも、さすがにあれは生徒会の越権じゃないかな?」
「折角の生徒会なんだから、役得は充分に活用しないとね」
 今日は、一ヶ月に一回の全校集会の日だった。わたしは、その全校集会で、特別イベントとして、歌をうたった。
 本来なら、それは大会で優勝したり良い成績を残した部活動の表彰に利用されるべき時間だった。わたしのようなただの帰宅部が、あくまで趣味の一環でしかないものを披露する場面じゃない。
 それなのに、わたしが歌をうたえた理由はたった一つ。生徒会の役員であるふゆちゃんが、無理やり自分の意見を押し通して、全校集会の時間を私的なことに利用したのだ。
「全校生徒に守口さんの歌声を、是非紹介すべきです!」
とかなんとか適当なことを生徒会で熱弁した結果、わたしがうたうことになった。まだ二年生のふゆちゃんがそんなことをして先輩たちに睨まれないはずがないのだけど、ふゆちゃんはそんなことでは怖気つかない。
「それに、ほら、みんな喜んでいたんだからさ。良かったじゃない。絵里沙だって楽しかったでしょ?」
 にやーっと、何か裏がある笑みを浮かべて、ふゆちゃんはくりくりとした瞳でわたしを見てくる。
「ま、まぁね。確かに、楽しかった……かな」
 図星を突かれ、それを素直に認めるのがなんだか悔しくて、わたしはそっぽを向いた。
 そう、素直に、みんなの前でうたうことはすごく楽しかった。今まではせいぜい、友だちと一緒に行ったカラオケくらいしか、他の人の前でうたう機会なんてなかった。
 それが、今回の大舞台。大勢の前でうたうことが、こんなに気持ちよくて、興奮することだったなんて! ふゆちゃんには隠してるけど、未だに胸の鼓動が収まらないくらいだった。こんな感動を与えてくれたふゆちゃんには、正直感謝している。
 もちろん恥ずかしくて、面と向かって「ありがとう」なんてとても言えないけれど。
「ほうほう、そうですか〜」
「なんなの、その不気味な笑みは?」
「別に〜。あ、じゃあ私、こっちだから。バイバイ、絵里沙」
「あ、ちょっと! ……もう、バイバイ、ふゆちゃん!」
 遠ざかっていくふゆちゃんの背中に別れの挨拶を投げつけ、わたしは二股の分かれ道の、もう片方の道を帰っていった。

 ご飯を食べた後は、いつも通りのボイストレーニングと体力トレーニング。それから、お風呂に入った。やっぱり、一日の一番のリラックスタイムはお風呂だ。お気に入りの入浴剤をどっさりと入れて、香りと色を楽しむ。
 そして、淡く濁った湯船に体を沈めながら、今日一日のことを振り返るのが、わたしの日課だ。今日の振り返りのネタなんて、一つしかない。
「気持ち、良かったな……」
 今までの人生で、あんなに興奮したことはなかった。あの舞台の上では、わたしはいくらでも上手くうたえる気がした。いくらでも伸びやかに、どこまでも高く、うたえる気がした。
 もちろん、それは幻想だ。今のわたしの実力で、そこまで上手にはうたえない。だけど、いつか……。
 ぶんぶん、と首を振る。そんな、いつか≠ヘ訪れない。それほどの覚悟を、わたしは持っていないのだから。わたしの歌うたいは、遊びの延長。趣味の一環。毎日、トレーニングは欠かさないけれど、それは趣味として最大限に楽しむためだ。これから何かになるためじゃない。
 ぶくぶく、と口元までお湯につけて、息を吐いた。


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