まるで、泥の中にいるようだった。
体を動かそうとしても、思うように動かせない。緩やかな抵抗が、四肢の自由を奪っている。まるで、操り人形のようだ。
視界は暗い。その暗闇の中に突然、鈍く白い光がぼぅっと現れた。最初は輪郭もないただの光だったそれは、だんだんと像をなしていき、
人の形になった。
それは、とても懐かしい姿だった。
僕の父さんと母さん。何年も前に殺された、僕の大事な人たち。僕が会いたいと焦がれている人たち。
じくじくと孤独感が僕を蝕んでいく。
「父さん――! 母さん――!!」
手を伸ばそうともがき、足掻くが、それでも二人への距離は遠い。
会いたい。会って、抱きしめられたい。二人の温もりが、そして世界が欲しい。
僕の全身を孤独感が駆け回る。その恐ろしさに、身震いする。こんな孤独、二度と味わいたくない。
僕は、二度と元の世界に戻らない。
戻ったら、また同じような孤独を感じてしまうことになる。この閉じた回路にずっと留まれば、いずれ自己が薄れ、孤独は感じなくなるだろう。それでいい。そっちのほうがいい。
そう心に決めたとき、突如目の前の暗闇が裂けた。そこから、白い光が広がっていき、僕はその中に吸い込まれてしまった。
それは、僕が有しているもっとも古い記憶だった。
何処か遠くの、広い野原。色とりどりの花が咲き乱れ、野草は力強く空に向かって生えている。聞こえてくるのは枝葉が擦れる音と野鳥の囀り。
そして僕は、両親と三人でそこに居た。まだ幼い僕は母さんの両腕に抱かれて、心音を聞いていた。母さんの温もりと合わせて、とても心地よかった。
空は、すべてを肯定するように広く、蒼い。幼い僕は、ぼけっとその空を眺めていた。
「ねぇ、蒼良」
母さんが僕に話しかける。
「見てみて、あの空。素敵でしょう。お母さんね、空が大好きなんだ。暖かくて、大きくて……」
ぎゅ……と、母さんが父さんの手を握った。父さんは幸せそうに、微笑んだ。
「空ってね、何でも受けれてくれる不思議な存在なの。自分がこの世界に生きているということも、あるいはこれから死んでいくということも。大事な人が生まれて来てくれたことも、そしていずれ大事な人が還っていくのを送らなければいけないのも。空は例外なく、受け入れてくれる。
ねぇ、蒼良。あなたの名前はソラなんだから」
――いつか、あの蒼空のような人に育ってね。
「――――――」
……何処か遠くで、声が聞こえる。まるで世界を一つ二つくらい、隔てたところから聞こえてくるみたいに、その声はぼやけて輪郭を喪っていた。……聞き覚えがある声だ、と胡乱な頭で思う。やがてそれが僕の傍から聞こえているのだと解ると、僕の意識はそれに引っ張られるように覚醒していった。
「こ、こ、は?」
「気がつきましたか?」
傍らに座っていた優美ちゃんが僕の顔を覗き込んでくる。その顔には、安堵の表情が浮かんでいる。
首だけを回して、辺りを確認する。どうやらこの前と同じような感じで、布団に寝かせられていたらしい。
上体を起こす。頭痛がするが、問題がある程度ではないようだ。
「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」
「うん、大丈夫。特に痛いところはないみたいだ」
両手をぐっぱと広げてみる。うん、問題はない。
「ごめんね、優美ちゃん。迷惑をかけて」
いえ、と優美ちゃんははっきりしない口調で答えた。
「……どうしたの?」
「ごめんなさい、蒼良さん。私が浅はかでした。今回、蒼良さんが倒れたのは、私の責任です。本当にごめんなさい!」
そう言って、頭を垂れる優美ちゃん。ちょっと待て、優美ちゃんはいったい何に対して責任を感じているんだ?
「性急すぎました。突然、あんなことを言ったら蒼良さんが混乱するだけだって、簡単に分かるはずなのに……」
優美ちゃんの瞳には涙が溜まっている。多分、さっきのやり取りのことを謝っているんだろう。いきなり、混乱するようなことをたくさん喋ってしまった、それで僕の頭がパンクして倒れてしまったんだと思っているんだろう。
「謝らないで、優美ちゃん。優美ちゃんは僕を助けるために色々教えてくれたんだろう? だった、優美ちゃんが悪いことなんて一つもないんだから、気に病む必要はないよ」
「でも……」
「それにね、倒れたおかげで夢を見ることが出来た」
「夢?」
「うん、そしてその夢のおかげではっきりと分かったんだ。
僕はただ、両親の死を認めることができなかっただけだったんだって。
ついさっきまで、僕は両親が死んだ場面すら覚えていなかった。それはつまり、僕が両親の死を受け入れていなかったということなんだ。受け入れていないから、未だに父さんと母さんをこんなにも求めている。受け入れていないから、孤独を否定している。孤独の否定性は、両親の死の否定に起因していた。だから……」
僕は大きく息を吸うと、ぎゅっと右手を握った。
「僕は父さんと母さんの死を受け入れなければいけない。ちゃんと、送ってあげなければいけないんだ。だから、僕は帰るよ。元の世界に」
そう、本心から言うことができた。僕の根源は未だに孤独を否定しようとしている。だけれど、僕はその根源には支配されない。その根源に、打ち克たなければ。
「……本当にいいんですね?」
優美ちゃんの確認に、僕は首肯する。
「確かに、元の世界には孤独が溢れていると思う。日常の至るところに孤独は潜んでいる。でも、それはすごく当たり前のことなんだ。人が人として、世界の中で生きていくためには。
孤独の否定……他人の否定……それは結局は世界の否定に他ならない。僕は、世界を否定したくない。僕が生きてきた世界を、みんなが生きてきた世界を、そして父さんと母さんが生きられなかった世界を。だから、僕は孤独を肯定する。
それはきっと僕にとっては困難なことなんだろう。でも、世界中のみんなが同じような孤独性を抱えているんだ。僕はソラなんだから、孤独は嫌だ≠ネんて、そんなこと言ってられない」
僕の言葉を、目を閉じて聞いていた優美ちゃんはそっと瞳を開けた。
「分かりました」
そして、微笑む。
「蒼良さんが分かってくださって、良かったです。もしかすると、このままこの世界に残っちゃうっていう可能性もしょうがないかなって思ってたんです。誰にも、人の意志に介入する権利なんてありませんから……」
「でも、最悪、無理やりにでも僕を連れて還れば良かっただろう?」
「そんなこと、できません」
きっぱりという優美ちゃんに、僕は何故だか安心感を覚えた。
「それでは早速……と言いたいところですが、実は問題があります」
「え」
……てっきりこのままスムーズに元の世界に戻れると思ってたのに。
そんながっかり感が顔に出たのか、優美ちゃんは慌てた様子で、
「ご、ごめんなさいっ。言わなきゃいけないと分かってはいたんですけど、タイミングがなくて」
「うん、まぁ今までの流れで、それを言うタイミングはなかったね」
慌てぶりが可愛くて、ついつい笑みが零れてしまう。今まではだいぶシリアスな状況だったので、そんな余裕は全然なかった。
「それで、その問題って?」
「元の世界に無事に還るには、あるタイミングが必要です。だから、そのタイミングの日までずっとこの話はしてこなかったんですが……」
なるほど、それで得心がいった。優美ちゃんが僕を助けに来たというのなら、それを隠さずにさっさとすべてを打ち明けるのが普通だ。だけど、そのタイミングがずっと先なのだとしたら、変に最初から喋ってしまうと、僕の心の中の状況がどうなってしまうか分からない。
「下手に喋ってしまうと、この世界が貴方を否定して、腐蝕がいっきに進んでしまう可能性がありました。そうすると、もう私ではどうしようもなくなってしまう。私は黙って、その時が来るまでゆっくりと待つつもりでした。だけど、わたしが想像する以上の速さで、この世界と貴方は腐っていってしまった。もう、時間がないんです。
今は、まだそのタイミングの時ではありませんが、今すぐに貴方は元の世界に還らなければいけません。でなければ」
死にます、と彼女は断定した。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「本当にごめんなさい。私がついうっかり、口を滑らせなければ、貴方はこの世界のことをまだ知らずに済んだ。そうすれば、もう少し腐蝕が進むのを遅らせることができたはずです。もしかすると、来るべき日まで保つことが出来たかもしれません」
「その……来るべき日じゃなかったら、どうなるの?」
「失敗する可能性が高まります。世界との接続の失敗、送還の失敗、あるいはまったく別の世界に行ってしまうという可能性もあります」
僕はそれを想像してみる。何だか想像できなそうな事象にも関わらず、僕はそれを想像することができた。
世界というあやふやな概念。そのあやふやな概念が、無数に存在する場。それは世界とか宇宙とか、そんな言葉すら霞んでしまう存在。その場に、自分が放逐される。時間も空間も存在しない場所に、自分だけが存在する。
それは、単純に死んでしまうよりも、不幸なことのように思えた。思わず、震える。
「わたしの役目は貴方を助けることです。だから……だから、これから貴方を元の世界に送ります=Bはっきり言って自信はないけど……わたしの命に代えても、絶対に蒼良さんを助けますから」
優美ちゃんの声は、決意に満ち溢れていた。絶対に僕を助けるんだという、強い決意。その決意が僕の中に流れ込んで、奥底に浸透していく。
下肢に力を入れて、布団から這い出る。優美ちゃんは慌てた様子で
「蒼良さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。『命に代えても』なんて物騒なこと言われたら、おちおち寝てられない」
「…………」
優美ちゃんの表情が赤らむ。その照れた様子が、また可愛らしい。
「帰るときは一緒にだ。絶対に、一緒にだ」
「……はい」
優美ちゃんは今にも泣き出してしまいそうだった。でも、泣かなかった。大きな雫を瞳に溜めながら、それでも優美ちゃんは泣かなかった。精一杯、涙が零れないように、瞼を開いていた。
「それで、元の世界に戻るにはどうしたらいいの?」
「それは準備をしながらお話します。まずは外に出ましょう」
「分かった」
ゆっくり、確かめるように一歩を踏み出す。眩暈がするが、大丈夫。歩くのに支障はない。
……と思っていた。
「っ……!」
一歩を踏み出し、二歩目を踏み出そうとした瞬間、僕の全身を疲労感に似た何かが一気に押し寄せた。重力が何倍にも増したかのように、体が重い。
「……これは、」
腐蝕だ。これが、優美ちゃんが焦っていた理由か。腐蝕はもう僕の孤独に関係なく、僕を蝕もうとしていた。このまま放っておけば、この世界と僕は……。
「蒼良さん?」
「大丈夫、だ」
と、どうみても大丈夫じゃない口調で言う。そんな僕の様子を察してか、
「……急ぎましょう」
と優美ちゃんは静かに言った。
外に出ると、いつも通りとてもとても青い空が僕たちを迎えてくれた。
「準備しますから、ちょっと待っててください」
優美ちゃんはそう言うと、アスファルトに白いチョークで何かを描き始めた。
「この世界は、世界の残滓≠ネんです」
世界の残滓、と口の中で呟いてみる。何だか実感が湧かない語感だった。
「本来の世界から、零れ落ちてしまった残り滓。それが、この世界の正体です」
ぐるり、と優美ちゃんは円を描き始める。それはとても大きな円だ。
「クッキーを思い浮かべてください」
「クッキー?」
クッキーってあのお菓子のクッキーか。何故にクッキー? そう思ったが、とりあえず頭の中に小麦粉で出来た円形のお菓子を思い浮かべる。
「そのクッキーを二つに割ってください」
パキン、と音がして、クッキーは六対四くらいの割合で二つに割れた。ぽろぽろと、細かい破片が地面に落ちていく。
「その破片が、この世界です。二つの世界と、無数の欠片。二つの世界はちゃんと手元に残りますが、認識しようのない無数の欠片はどこかに消えてしまいます」
分かりやすい説明だなと思う。と、同時に、僕は違和感を覚えた。それは何か、説明としては適切ではないように思えた。しかし、僕はそれが何なのか分からない。
「本来なら、消滅していくはずの残滓が、今回は不幸なことに貴方と感応してしまった。それで、閉じた世界として、そのまま消滅することなく存在し続けています」
円が閉じた。直径二メートルほどだろうか。優美ちゃんはその円に何かを書き足し始める。
「元の世界に戻る方法。それは、本来の世界とこの世界を繋ぐことです。接続することで、行き来が可能になります。時間としては、本当に一瞬でしょうが、充分に元の世界に戻れる時間はあります」
「……ちょっと、待って。なんか凄い話に聞こえるけど、そんなこと出来るの?」
「そのためにわたしがいます」
強い口調で優美ちゃんは言う。それは僕に言い聞かせると共に、自身への決意表明の様でもあった。そのためにわたしがいます=B
……本当に、彼女は何者なのか?
でもそんなことを気にしても仕方ない。彼女なら出来る。それでいい。
優美ちゃんは円に大きなS字を描き、二つに区切った。そして、片方を白く塗りつぶしていく。この図には僕も見覚えがある。
「太極図?」
「はい。混沌が太極に成り、両儀に別れ、四象に通じ、八卦に至る。まぁ余談ですけど」
出来ました、と呟いて、優美ちゃんはチョークを置いた。見事な太極図だ。
「これで完成です。蒼良さん、準備はいいですか?」
準備はいいか、と訪ねられても僕のほうでは準備するものは何もない。僕は首肯する。
「始める前に言っておきます」
優美ちゃんは僕の方を向いて、真面目な口調で言う。
「本来なら、これはあと数日後に行うつもりでした。その日が一番成功の可能性が高かったからです。ですが、もうそんな暇はない。今はどうやら身体の調子は戻っているようですが、次に倒れたときがおそらく、蒼良さんとこの世界が終わるときです。ですから、一刻も早く貴方を元の世界に還さなければいけません。
……しかし、失敗の可能性もあります。それほど高くはありませんが、でもそれは起こり得ます。起こった場合、蒼良さんの命の保障はありません。それを、覚悟しておいてもらいたいのです」
僕は首を振る。
「覚悟は要らない。絶対に成功する。そう、信じてるから」
「蒼良さんっ! 冗談で言っているんじゃ」
「解ってる。でも、僕は優美ちゃんを信頼する。それで良いじゃないか」
「…………もう」
優美ちゃんは観念したように、溜息をついて、微笑んだ。
「そんな事言われたら、失敗できなくなるじゃないですか」
「失敗する気はないんでしょ? なら、充分だ」
「……解りました。では、始めます。危ないので下がっていてください」
優美ちゃんの言う通り、僕は三歩下がって彼女の行動を見守ることにする。
彼女は地面に手を置くと、何か呪文のようなものを呟く。すると、彼女の描いた太極図の外円にゆっくりと光が走っていく。
やがて外円に光が通ると、今度は中の陰と陽の部分が光に包まれていく。
彼女はまるで誰かとタイミングを合わせるように、呼吸を刻む。肩が揺れ、それに呼応して髪が揺れる。
「いくよ、私――!」
その言葉と共に、彼女は両腕に力を込めた。
「――――!?」
突如、途方もない違和感が僕の身体を襲った。ビリビリ……と身体が震える。一瞬、地震か、とも思ったが、それがこの世界ではありえないということに気付くのに時間は掛からなかった。
――これは。世界という概念そのものが震えているんだ。
僕が居た元の世界と、この残滓の世界。二つの世界が、接続される。
しばらく震えていた世界は、やがて落ち着きを取り戻していった。
「……蒼良さん。この光の中に入ってください」
彼女は額に汗を浮かべながら言った。傍目から見ても、相当キツそうだ。しかし僕が声を掛けようとすると、彼女はきつい口調で
「早く。この状態を保てるのは一分もないですから」
「あ、ああ……」
彼女は僕が声を掛ける暇も与えてくれない。意図的に僕との会話を拒否しているみたいだ。
しょうがないので、その太極図の中に入る。僕が中に入ると、太極図はより光を増した。……僕を歓迎しているのだろうか?
「そうです。向こう側が、貴方を呼んでるんです。元々、貴方は向こう側の人間ですから」
「…………」
何か、含みのある言い方だった。しかし、彼女の真意を読み取ることは出来ない。
優美ちゃんは少し哀しげな表情を見せると、両手をパンと合わせる。
「あ……」
それを合図にして、太極図の陰と陽の光が膨れ上がり、絡み合って螺旋を形成していく。陰は陽を喰うように、陽は陰を飲み込むように。
「陰と陽は相対的なものながら、故に単独では存在しえません。陰は陽で、陽は陰。同じように、わたしは私で、私はわたしです。接続はそうして、行われる」
光はやがて一つになり、僕を完全に包み込んだ。
「なんとか上手くいきそうです。でも、最後まで安心しないでくださいね。ちゃんと向こうに帰られたら……その、まぁ心の中で『帰れたよ』とでも言ってください」
優美ちゃんは微笑を浮かべて、一歩後ずさる。
「……え? 今の、どういう……」
「さようなら。蒼良さんとの生活、楽しかったです。蒼良さんとの会話、楽しかったです。生まれて初めて逢った人が、貴方で本当に良かった」
「待てよ! どういう意味だよ、それ!?」
「わたしはここに残ります」
……一瞬、彼女が何を言ったのか理解出来なかった。ワタシハココニノコリマス……?
「何を……言ってるの……? なぁ、一体、何を言ってるんだよ!!」
ジワリと不安が侵蝕してくる。
「蒼良さんは元々向こうの人だから、向こうに還らなきゃいけない。でもね。わたしはここで生まれたんです。この世界で生まれたんです。だから、向こうには行けない。行く資格は、ない。わたしは“わたし”だから」
彼女の言葉に愕然とする。相変わらず彼女の言葉は理解しがたいことばかり。ただ一つ分かったことは、彼女は、“向こう側”に行けないということ。行かないのではなく、行けない。拒否ではなく、不可能。
……なぁ、思い出してみろよ、自分。今までの彼女の言動を。
『一緒に帰ろう』と言った時は泣きそうになった。あれは嬉しかったから泣きそうになったのだと思った。本当は『一緒に帰る』ことなんて出来ない事を知っていたから?
彼女は「送る」と言った。もし一緒に帰れるなら、そんな言い方はしない。「見送る」と一緒で。それは残る人間の言葉だ。
なんてことない。彼女は解ってたんだ。自分は向こう側に行けない事を。最初から。
「優美……ちゃん」
「そんな顔しないでください。蒼良さん」
「嫌……だ。君だけを、置いていくなんて……」
「しょうがないです」
しょうがない、と言い切る彼女すら、憎く思った。
そんな僕の気持ちとは裏腹に、光はどんどん強くなっていく。僕が向こうに帰る時が、刻一刻と近づいているのが解る。
「優美ちゃん!」
僕は優美ちゃんの方に手を伸ばす。でもそれは、光の壁に邪魔をされて、彼女には届かない。
悔しくて、歯がゆくて、その光の壁をドンドンと叩く。
「本当にありがとうございます。貴方に逢えて嬉しかったです。あと……出来れば、わたしのこと忘れないでくれたら、もっと嬉しいです」
彼女は最高の笑顔でそう言う。
何で、僕にありがとうなんて言うんだ。ありがとうを言うのは僕のほうだ。僕は彼女に何もしていない。にも関わらず、彼女には世話になりっぱなしだった。
「……僕の方こそありがとう。絶対に。君の事は忘れないから」
今にも零れそうな涙を我慢する。せめて、笑おう。それが僕に出来る彼女への最大の贈り物だ。
「ありがとうございます。最後に、貴方の笑顔が見れて、良かった」
『最後』という言葉が重く響く。
「時間です。無事に向こうに帰れることを、祈ってます」
「……ああ。ありがとう」
光の粒子が、僕の身体を解体していく。足の爪先から徐々に、それは進んでいく。
彼女は笑って僕を見送ってくれていた。とても、とても、可憐な笑顔で。しかし最後に。その笑顔が崩れて、大粒の涙が零れたのを、僕は見逃さなかった。
やがて、それも見えなくなった。
空は蒼い。
目の前の光が空に収束されていく様を、わたしは見つめていた。
これでもう、彼と逢うことは出来ない。
それが寂しくないと言えば、嘘だ。
彼と話をしたのは数日でしかないが、それはとても楽しい時間だった。
わたしは生まれた瞬間から彼と共にいた。むしろ、彼が居たから、わたしが生まれたと言える。
だから、わたしは彼にとても親近感を抱いていた。多分、それは一般の人が『家族愛』と呼ぶ感情であったんだと思う。年齢的に言えば、彼は「お兄さん」なのだろうか? そんなことを想いながら彼と生活するのはとても楽しかった。
わたしは、彼とはもう二度と逢うことは出来ない。でも、大丈夫。私が居るから。
空を見上げる。
彼に、最初になんて言葉を掛けようか、と想いながら……。
朽ちて、滅んでいく空をずっと見ていた。
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