あれから、一ヶ月が経った。
僕が残滓の世界にいる間、こちらの世界では時間が経過していなかったらしい。僕はあの時、あの場所に、何もなかったように還ってきた。
一瞬夢を見ているのかと思ったが、優美ちゃんとの思い出を夢と吐き捨てるのは嫌だった。たとえ、本当は夢だったとしても、僕が信じている限り、それは夢じゃない。
僕は彼女との生活を記憶に留めつつ、日常の生活に戻っていった。
久しぶりに友人と出逢った。
久しぶりに熱いコーヒーと冷えたコーラを飲んだ。
久しぶりに夏の熱を感じた。
それが凄く新鮮で、心地よかった。当たり前に、普通の世界に生きているんだと実感した。だけど、僕が居たあの世界も、多少の形は違えど、世界なのだ。そうしてみると、今のこの普通の世界の存在に、凄く違和感を感じる。まぁそれは、僕があの残滓の世界に長く居すぎたせいなんだろう。
あれから、一ヶ月が経った。
今日は八月十六日。
五山の送り火である。
日が暮れてくると、僕は近くのコンビニに向かった。送り火だと言ってもコンビニエンスストアの営業には何の関係もない。店内にはいつも通りの店員といつも通りの客が居た。もう少し北にあるコンビニなら見学者が客として入っているのだろうが……。
とりあえず、ビールのロング缶を一本と、梅酒をカゴに入れる。自分用に何を買おうかと思案する。つい一週間前に成人したばかりなので、まだお酒を飲むことには慣れていない。十五分ほど考えて、結局普通のビールを買うことにした。日本人なら、とりあえず、ビールだ。
右手にコンビニの袋を携えて、ぷらぷらと歩く。独りの、穏やかな時間が過ぎていく。
五山の送り火を見ようと思った時、一番最適なのはビルやマンション、ホテルなどの屋上だ。高いところからの方が、五つの火すべてが見渡せて、景色も良い。だが、この時期の京都市内のビルの屋上は基本的に見物客で一杯だった。とある百貨店では、入場制限すら設けるほどだ。
かつて、中学生のとき、クラスの女の子と五山の送り火を見たのは鴨川に掛かっている橋の上だった。そこも鑑賞スポットとしては人気で、たくさんの人に押されながらぼぅっと山に火が灯るのを見ていた。あの時の彼女は今、どうなっているのだろう。少し思いを馳せてみるが、まともに顔も思い出せなくて苦笑する。名前は覚えているんだけどな……。
とぼとぼと歩き続けて、自分のマンションに戻ってきた。エレベータに乗り、最上階すなわち「一〇」のボタンを押す。
エレベータには結局誰も乗ってこず、僕はスムーズに十階にたどり着いた。エレベータホールに出て、その脇にあった非常階段をさらに昇る。一階分昇ると、無骨な鋼鉄の扉が現れた。そこには「工事中のため、危険! 立ち入り禁止!」という張り紙が張ってある。僕はそれを無視して、その扉を開けた。
風が、吹いた。
マンションの屋上には、もちろん、誰もいなかった。がらんとした灰色の世界は、その雰囲気だけで冷たさを感じさせた。工事中のような箇所は見当たらない。当たり前だ。あれは僕が張った嘘の張り紙なんだから。
普段なら、この屋上は誰でも上ってこれるように開放されている。だが、今夜は誰にも邪魔はされたくなかったため、侵入者を防ぐ目的であの張り紙を張ったのだ。それが功を奏した。
北方向の金網に近寄った。そこからは送り火が良く見えるはずだ。京都の街は夜の闇に浸かりつつあった。高いマンションやビルが、寺院が、そして山々が夜に沈む。
時刻を確かめると、十九時半だった。
「あと三十分か」
最初の大文字に火が入るのは午後八時。それから妙法、船形、左大文字、鳥居の順番に点火される。
僕は座って、目の前に先ほど買ってきたものを広げる。缶ビールロング缶に梅酒に普通の缶ビール。
三十分、そのままの体勢で過ごす。その間は何も考えなかった。ただ、ゆっくりと時間が経過するのを感じていた。
「そろそろ、だな」
再び、時刻を確認する。十九時、五十九分。あと一分で、大文字への点火が始まる。
送る火が、始まる。
僕は送る準備のために、目の前の飲み物のタブを開けた。そして、自分の分の缶ビールを手に取る。
あとは、カウントダウンをするだけだった。腕時計の秒針を睨みつつ、僕は心の中で点火のカウントダウンを始めていた。
(五、四、三、二、一……)
零。
ぼんやりと、漆黒の夜に火が浮かび上がっていく。最初、点だったそれは線を為し、そして字と為る。
大、という文字が、京都の夜に描き出された。それはとても幻想的な風景だ。この世とあの世の境界。だからこそ、送るという意味が生じる。
生きている僕が、死んでしまった人を送る。
父さんと母さんを送るために、僕は今年の大文字の送り火に参加した。あの時、ある少女と約束したから。両親の死を受け入れると。僕が抱えている孤独を認めると。
今日がそれの第一歩だ。僕は両親を送ることで、両親の死を認める。
「乾杯」
ビールのロング缶と梅酒の缶に、コンと僕の缶を当てる。そして、一口。
ビールの苦味が喉を通っていく。未だにこの感触に慣れない。僕はあまりビールは好きじゃないが、父さんはビールが、母さんは梅酒が大好きだった。
ふぅ、と溜息と吐く。今夜は気温があまり、高くなく、過ごしやすい。穏やかな風が僕の頬を撫でていく。
ぎぃぃぃぃ。
背後で音がした。誰か、この屋上にやってきたのだ。「危険! 立ち入り禁止!」という張り紙が張ってあるにも関わらず、入ってくるなんてなんて非常識な人なんだろうと思う。まぁ張り紙を張ったのは僕なんだけれど。
僕は振り返って、
言葉を、喪った。
そこには、身長百三十センチ前後の、ツインテールの女の子が立っていた。
僕は、その女の子に見覚えがあった。いや、見覚えなんてレベルじゃない。僕はその女の子と、数日ではあるがとても濃い日々を過ごしたのだ。
「ゆう、び……」
「はじめまして、蒼良さん」
浴衣姿の少女は、語気を強めて、言った。
「はじめまして……?」
何を、言っているんだ?
「君は、優美ちゃんじゃないの?」
「私は、北栖優美であり、北栖優美ではありません。私は私ですが、わたしではない」
「別人なの? そんなにも似ているというのに?」
「定義によると思います。ある定義では別人になりますが、ある定義では同一人物になる。それを決めるのは私ではなく、私以外の他人です」
そう言う少女の口調は、僕が知っている北栖優美と瓜二つだ。頭がくらくらする。
「とりあえず、別の個体という意味では、別人なので、そう思ってくださればいいですよ。……今日は蒼良さんに報告しなければいけないことがあったので来ました」
その少女は下駄をカランコロンと鳴らしながら、近づいて来る。その音が妙に場違いなように聞こえた。
「なに?」
「貴方が知っている北栖優美は、死にました」
僕はぽかんと間抜けな表情を浮かべて、その少女を見つめた。何を言っているのか、理解できなかった。少女はそんな僕の様子を感じ取ったのか、もう一度同じ事を言った。
「北栖優美は、死にました」
優美ちゃんが、死んだ? 僕はその言葉が意味するものが、うまく想像できなかった。死んだ? 死んだって、いったい、どういう状態だ?
混乱したまま、言葉を紡ぐ。
「それは、冗談だろ? それか、死にましたっていうのはただの比喩表現で」
「違います。彼女は物理的に死にました。……いえ、死んだという表現も適切ではないのかも。私たちは死にませんから」
ただでさえよく分からない話だったが、僕の頭の中が混乱している所為で余計に分からない。物理的に死んだ? 死なないのに、死んだ?
「蒼良さん、貴方はあの世界が『貴方が望んだ、貴方の世界』だということは分かっていますよね?」
「あ、ああ。優美ちゃんにそう教えてもらった」
「とても、単純な話です。あの世界が貴方の世界なんだったとしたら、その世界の主ともいうべき貴方があの世界から消えてしまったらどうなると思いますか?」
「どうなるって……」
どうなるんだ、いったい。
「消滅します」
その少女は、とてつもないことを淡々と言った。
「馬鹿な、だって、仮にも世界なんだろう?」
世界がそんなに簡単に消滅してたまるものか。
「蒼良さん、蒼良さんは多分、勘違いしています。世界は、人がいなければ存在し得ないんですよ。誰もいない世界なんて、存在しない。
あの世界も、本当なら存在しなかった。ただの一つの“可能性”として、終わるはずだった。ところが、貴方の根源が感応したせいで――貴方自身を核とすることで、あの世界は世界として存在することになってしまった。その核がなくなったんです。世界は世界としての形を保てず、可能性へと霧散した。
その結果、あの世界にいた北栖優美という存在も、消えてしまいました。今、どこの世界を探しても、彼女は存在しないんです」
「馬鹿な、だって……」
僕は否定しようとしたが、否定すべき材料を見つけることが出来なかった。本当に、本当に優美ちゃんは消えてしまったのか? 胸が押しつぶされそうになる。
「……彼女の、最期の言葉を預かっています」
「……!?」
「『短い間でしたが、ありがとうございました。まるで、本当の家族みたいで楽しかったです。さようなら……お兄ちゃん』」
その台詞は優美ちゃんのものそのもので、僕は、
「っあ、」
急に溢れ出てきた涙を拒むことができなかった。
優美ちゃんと過ごした数日を思い出して。
優美ちゃんと別れたときの、あの笑顔を思い出して。
そして、最期のあの涙を思い出して。
「優美ちゃんは、僕のせいで……」
僕がこちらの世界に帰らなければ、あの世界は消えなかった。優美ちゃんも消えなかったはずだ。
内側に、後悔の念が湧き出る。重責で、胸が潰されそうになる。
だが、その少女はふるふると首を横に振ると、
「いいえ、蒼良さん、それは違う。むしろ、貴方のお陰で、北栖優美という存在は誕生することが出来たんです」
「僕の、お陰で?」
「貴方があの世界を生んだんです。だから、北栖優美というアーキテクチャもあの世に存在することが出来た。本来生まれなかった北栖優美を、貴方が生んでくれた。本当に感謝しています。私も、わたしも。
だから、そんな顔しないでください。蒼良さん」
『そんな顔しないでください。蒼良さん』
その少女と優美ちゃんの台詞がだぶる。僕は今、泣いている。大粒の涙を零して、嗚咽している。
それは、優美ちゃんが望んでいる僕の姿ではない。優美ちゃんは、僕が笑顔でいることを望んでいたんだ。
彼女たちは僕にありがとうと言った。だから、僕はその感情を受け入れてあげなければいけない。ありがとうと言われて、悲しみの涙に埋もれているなんて失礼だ。
涙を流す機構を止める。そのシステムをカットする。瞳から溢れ出ていた涙が、だんだんと止まっていく。
そして、僕は笑った。
「別れ際に約束したんだ。優美ちゃんのこと、絶対に忘れないって」
「はい、できればずっと覚えてあげていてください」
少女もにっこりと笑う。いつか見た、笑顔で。
僕は再び、京都の街を眺めた。夜の空には、「大」の文字の他に、「妙法」が浮かび上がっている。次は船形が灯るはずだ。
「この前は、優美ちゃんが僕を送ってくれた」
だから、今夜は僕が優美ちゃんを送ろう。優美ちゃんの魂が、優美ちゃんの世界が、迷わないように。
「せめて、優美ちゃんの魂が、“最善の世界”に辿りつくように」
僕は、少女とともに、夜の深い蒼に浮かぶ火を眺めていた。
CLOSED CIRCUIT - end -
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