ポツン、と。何か雫のようなモノが垂れた。それはポツポツと段々勢いを増してき、やがて雨になった。僕はその中心で、茫然と立ち尽くしていた。
その雫は、とても綺麗な赤色だった。
足元は雫が満ちて小さな溜りになっている。怪しくぬめる水溜りは、まるで世界をむりやり凝縮させたように歪んでいた。
雨の源は、僕の目の前に在る二つの肉塊だった。ピクピクと動いてはいるものの、ソレは最早、生命体としての役割を果たしてはいない。首筋から勢いよく飛び出ている赤い血は、天と地を無慈悲なまでに慈悲深く原初の色に染め上げている。
僕は泣いて啼いて、そして嘆きながらその赤色に侵蝕されていた。
僕は独りになってしまった≠ニ。幼いながら……否、幼い故に思ってしまった。孤独は嫌だ≠ニ。
「僕が……望んだ世界だって……?」
優美ちゃんの言葉に思わず絶句した。
「馬鹿な! 僕はこんな世界を望んだことなんて……!」
声を張り上げて否定する。いくら何でもありえない。いったい誰が、誰もいないような世界を望むというんだ?
そう思いつつ、心の奥底に何かのわだかまりを感じた。僕の思いとは裏腹に、僕の心は何かを認めようとしていた。
優美ちゃんは目を伏せたまま、ゆっくりと言う。
「そう、多分、表層上の貴方は望んではいないと思います。でも、樟乃瀬 蒼良≠ニいう概念、樟乃瀬 蒼良≠ニいう根源に刻み込まれています。孤独は嫌だ≠ニ。だからこの世界が生まれました」
「孤独は嫌だ?=v
何処かで聞いたことがあるフレーズだ、と直感的に思った。
そして突然、視界が赤に染まった。
「……っ!?」
激しい頭痛を伴い、目の前の世界が赤色に変わっていく。
「思い出してください、その記憶を。貴方が閉ざしている、赤の記憶を」
その日の空は、何故か赤かった。
日曜日だというのに、その空の所為で僕たちの家族は外に出ることを躊躇い、結果家の中でごろごろとしていた。父親も母親も、そして僕も外で遊ぶのは好きだったので、休みの日は近くの公園で遊んだり、少しドライブして遠出することがほとんどだったから、それはとても珍しいことだった。
僕は父親と一緒に先日買ったばかりのテレビゲームをプレイしていた。対戦格闘ゲームだ。
「いやー、蒼良は強いなぁ」
降参、と言う風に両手を上に挙げる父さん。画面には僕が使っていたキャラが嬉しそうにピョンピョンと跳ねている姿が映っている。これで僕の十勝一敗。僕はしたり顔で父親を見上げる。
「友達にとっても強い奴がいるんだ。そいつといつもやってるから」
「なるほど。その子と競い合ってるわけだ」
台所では母親がエプロン姿で昼食の用意をしていた。トントンと小気味良い包丁の音が響く。
「絶対にいつかあいつに勝ってやるんだ!」
「はは……その意気だ。じゃあもう一回するか?」
「うんっ!」
そうして、もう一度コントローラを握った、その時だった。
赤が、侵蝕してきた。
ソレはドアを音もなく開け、キッチンに侵入し、料理をしている母さんの首をナイフで後ろから一閃した。ソレは何の憂いも躊躇いもなく、完璧に、母さんの命を奪うために必要最低限なことしかしなかった。……悲鳴を上げる間もなく、母さんは絶命した。
僕たちがソレに気付いたのは、母さんの身体が崩れ落ちる音がしたからだった。
僕と父さんでキッチンを覗くと、そこは既に赤の海だった。中央には、噴水と化した母さんの身体。
「…………!?」
……思わず息を呑んだ。何故なら母さんのその姿は……とても、綺麗だったから。
ソレは母さんの隣に立って、母さんの返り血を体中に浴びていた。それは浴びてしまったというよりは、むしろ自分から浴びているように思えた。そうして、隷属しているのだ。……殺した、相手を。
ソレは僕と父さんの姿を認めると、口元を歓喜に歪めた。
「っ! 逃げろ、蒼良!」
そう叫ぶと、父さんは僕を庇う様に僕の前に躍り出た。しかし一呼吸する間もなく、父さんは頚動脈を切られ、血を吹きながら崩れ落ちた。父さんの身体の影から現れたソレは、血で顔を赤に染めていた。その赤の間から光る瞳からは狂喜が滲み出ていた。
僕は生まれて初めて、本当の恐怖というものを感じた。その感情は、僕から恐怖以外の感情や感覚を根こそぎ奪い取ってしまっていた。ただ、本当に恐怖だけを感じている。故に、恐怖はより鋭く僕の心を突き刺してきた。ヒトは、ここまで圧倒的に無慈悲に完璧にヒトを殺せると言うことを、僕は知った。或いはソレはヒトではなかったのかも知れない。そんな事、僕にはどうでも良かった。僕は目の前にそびえ立つ死を、覚悟するしかなかったのだから。
しかしソレは僕を殺さなかった。ソレは僕をその病的な瞳で一瞥した後、何の迷いも躊躇もなくドアから出て行った。
ポツン、と。何か雫のようなモノが垂れた。それはポツポツと段々勢いを増してき、やがて雨になった。
それでようやく、父親の首筋から吹き出た血が僕の身体に降り注いでいることに気付いた。本当の恐怖によって奪われていた感覚や感情が、僕の裡に徐々に戻ってきた。
フロアは文字通り血の海となっていた。赤く、黒く、怪しくぬめるその海は、世界を凝縮させて、歪めたみたいだった。
僕は泣きながら啼きながら、世界の中心で嘆いていた。
最初に去来した感情は、哀しさよりも寂しさだった。
それは両親が居なくなってしまったと。幼いながらに悟ってしまった故だった。そう、僕は殺された両親を想ってではなく、遺された僕を想って泣いたのだ。
そのあまりの悲哀さに。そのあまりの不幸さに。そして、そのあまりの孤独に。
寂しいのは嫌だ。独りは嫌だ。
孤独は嫌だ。
両親によって作られた世界の真ん中で、僕は叫んだ。
「あ――」
そうして、僕はすべてを思い出した。
父さんと母さんの、あの赤い記憶を。
思い出したが故に、僕はずっと僕の中に存在していたソレに気付いた。
絶望的で、おぞましい孤独。そいつは、あのときからずっと、僕の中に巣食っていたのだ。
脳裏に浮かぶのは、たくさんの人々の姿。中学、高校、大学の友人たち。家庭教師先の生徒と親御さん。行きつけのラーメン屋の店長。お世話になった先生たち。
そして、両親。
――会いたい。その果てしなき欲望が、ぐつぐつと体内で煮えたぎっている。
それはまるで飢餓に似ていた。砂漠の果てで水を求めるような、氷河の中心で熱を求めるような、海の底で大気を求めるような飢餓。
未だかつて、ここまで他人の存在を焦がれたことはない。
本当の孤独とは、これほどまでに飢え乾くものだったのか。
「あ、ああ……」
右胸を強く抑える。あらゆる器官が暴走して、僕の体中を巡りまわっている。
嗚咽して、そして慟哭する。
「……嫌だ……。嫌だ嫌だ嫌だ……!」
こんな孤独感は、人に耐えられるものではない。人が耐えていいものでもない。
こんなことなら……。いっそのこと、他人など最初からいなければ良かった……! そうすれば他人など、望まずに済んだのにッ!!
「そう、そういうことです」
静かに、優美ちゃんが言った。
「……蒼良さん、この前、貴方は言いましたよね? 孤独とは自己という概念の収束≠セって。たとえ、どれだけ人と関わりあいを持とうと、自己が自己である以上、絶対に孤独を抱えることになる。孤独を拒絶しようと思ったら、自己という概念≠無くすしかない。
そして……自己という概念≠無くすには……この世界から、他人という概念を排除すればいい。他人がいるから、わざわざ自分と他人の間に境界線を引かなければいけなくなる。他人がいるから、自分が存在するんです。他人がいなければ必然的に自分は存在しなくなる。自分が存在しなければ、孤独は存在しない。そう、今、貴方がちょうど他人の存在を拒絶しているように」
ドクン、ドクンと。世界が僕の孤独に呼応して、脈動する。
「だから、この世界が生まれたんです」
「っ……」
それで、痛いほどに納得した。納得できてしまった。
「は、ははは。そうか……」
他者を拒絶した果てに、勝手に閉じた世界を作ってしまった。そして今、その世界の中で、僕は他者の存在を欲している。
なんていう馬鹿げた、閉じた回路。自分の「理由」が、あらゆる「結果」を生み出している。
「あははははははは」
もう、泣くしかない。啼くしかない。
世界が、脈動を強める。……脈動? いや、多分、違う。この感覚は、ついこの間、感じたばかりのはずだ。
腐蝕、だ。世界が腐っていっている。その証拠に、僕の視界には、散ら散らと腐敗の粒子がたゆたっている。
「………っ!」
内臓がぎしぎしと、万力で締め付けられたように押しつぶされる。骨と筋肉は継ぎ合わせを間違えたように軋んでいる。
「否定……しているのか……?」
直感的にそう思った。この腐蝕は、この世界が自分自身を否定しているが故のものだと。その歪みが腐蝕となって、現れているのだと。
「なぜ……? なぜ、この世界は……」
「分かりませんか、蒼良さん。今の貴方なら、多分、分かると思います」
優美ちゃんが、僕の両手をぎゅっと握り締める。小さくて、柔らかで、そして温かい感触がこそばゆい。
胸の奥が、きゅんとした。すうっと、優美ちゃんの欠片が僕の中に入ってくる。その欠片が溶けて拡散して、僕の裡に渦巻いてた孤独を静めてくれた。それと同時に、腐蝕していた世界が安定していく。
「……ああ、そういう……ことか」
僕は理解した。
この世界は、僕が孤独を拒否したために生まれた世界だ。孤独を拒否するために、他人を否定した。だから、この世界には他人は存在しない。
確かに、他人がいなければ、孤独は存在しなくなるだろう。しかしそれは正確には他人を知らなければ≠ニいうことだ。僕はもう既に他人を知ってしまっている。つまり、孤独の存在を知っている。
だとしたら、例えこの世界に他人がいなかろうと……いや、他人がいないから故に、余計に僕は孤独を感じることになる。そして実際に感じていた。自分が居れば、必然的にそこには孤独が存在する。
ならば、この世界そのものが矛盾だ。孤独を否定するための世界が、僕の孤独を生み出している。その矛盾性が、この世界の歪みとなり、そして腐蝕しているのだ。
僕は思い出す。……優美ちゃんと出会う前に、世界が腐蝕して、それに巻き込まれたときのことを。そしてさっき、孤独に反応して腐蝕が再び始まったときのことを。
あれは物質的な腐蝕ではない。世界という概念が腐り始めていたんだ。だから僕の目には世界は歪んで見えたし、この世界の一部である僕の身体や精神も不調をきたし……そして、僕≠ニいう概念も腐り始めたのだ。
だから、僕の孤独が埋まることで、この世界の腐蝕は一応、止まる。優美ちゃんが、止めてくれた。
ふぅ、と短く息を吐く。頭痛と動悸は何とか治まってくれた。
「大丈夫、ですか?」
心配そうに、優美ちゃんが覗き込んでくる。僕はうん、と頷くと
「ありがとう。なんとか、大丈夫」
「そうですか……よかった」
ほっと胸を撫で下ろす様子の優美ちゃん。ぎゅっと、未だ僕の手を包んでいる両手にも、安堵の力が込められる。
その温もりをぼうっと感じていた時、唐突にある一つの疑問が浮かび上がった。それは、この世界が誕生した経緯を理解し、納得した故に生まれたものだった。
「ねぇ、優美ちゃん」
僕は、
「一つ、訊きたいことがあるんだけれど」
その疑問を口にした。
「どうして、君はここにいるの?」
「……え?」
優美ちゃんの肩がゆれる。それが彼女の両手を通して、僕にも伝わってくる。
「この世界が生まれた理由はよく分かった。だけれど、もしそれが本当に正しいとしたら、優美ちゃん。君の存在は矛盾を孕んでいる。この世界には、僕以外の人間は存在してはいけないはずなんだ。君は存在しないはずの人間だ。そうだろう?」
「そう……ですね。確かにその通りです」
「じゃあ、君はいったい」
「さっきも言ったでしょう? わたしの目的は、この閉じた世界から、貴方を助けることです」
「僕を助けに、わざわざこの世界に来てくれたと?」
「微妙に違いますが……そうです、そう思ってくださって構いません」
「この前、この世界に来たときの様子を話してくれたよね? あれは嘘?」
「……はい、嘘です」
優美ちゃんは申し訳なさそうな口調で言った。あれが嘘なのだとしたら、優美ちゃん自身の情報も嘘という可能性が高い。
「優美ちゃん、君は」
いったい、何者なんだ?
と、尋ねようとして、彼女がすっくと立ち上がった所為で、訊きそびれた。
「ひとつ、確かめておきたいことがあります」
「なに?」
「蒼良さん、貴方は、元の世界に戻りたいですか?」
「どういう、こと?」
「そのままの意味です。どうですか?」
「そんなの、当然」
戻りたいに決まっている。そう言おうと思って、口が止まった。
僕の心の奥底が、その台詞を口に出すのを止めたのだ。
どういうことだ? 僕は、あの元の世界に戻りたくないというのか?
「この世界は、貴方の根源が作った世界です。つまり、貴方の根源はこの世界を認めてしまっているんです。たとえ、矛盾を孕んでいようと。貴方は本心ではこの世界で生きていきたいと思っている」
ぎゅぅっと、胸が軋む。僕は喉の渇きを覚えながら、
「っ、だって、この世界にいたところで、孤独を否定できる訳じゃない。そうだろう?」
「今の段階では。しかし、この世界では、いずれ、貴方は孤独を感じなくなるでしょう。貴方はそういう風に適応していくはずです。そして、それを貴方の根源は願っている。
だけれど、元の世界に戻ってしまうと、嫌が応にも孤独に身を苛まれることになります。そこに他人が存在する限り、自己という概念が存在する限り、人は色んな種類の孤独を感じることになります。それでもいいんですか?」
きわめて平坦な声で、優美ちゃんはそう言った。
記憶が溢れ出てくる。今までの生活において、僕が孤独を感じてきた場面。それは孤独な夜であったり、雑踏の中であったり、学校の教室であったりした。程度はあれど、僕はこれほどまでにたくさんの孤独を、今まで感じてきたのだ。
――嫌だ。
僕の心が叫んだ。孤独は嫌だと。孤独の存在は認めないと。
……元の世界になんか、戻らないと。
「わたしは、貴方を助けるのが目的です。ですが、貴方が本当に帰りたいと思わない限り、私にはどうすることも出来ません。
……蒼良さん、貴方の本心を教えてください」
「ぼ、僕は……僕は……!」
帰りたいのか。
この世界に留まりたいのか。
二つの意志が僕の中で相克する。「留まる」という意志の出所は分かる。しかし、「帰る」という意志は、いったいどこから来ているのだろう?
もしかすると、「帰りたい」という気持ちはただの張りぼてなんじゃないか? そうだ、僕は何故、あの孤独に満ちた世界に帰らなければいけないんだ?
意識が収束していく感覚。突然、目の前がまっくらになる。
「っ!! 蒼良さ……」
優美ちゃんの声が聞こえた。だが、それも途中でぷっつりと切れた。
視覚が消え、聴覚が消え、そして残り三つの感覚も消え。
意識は夜の帳が降りるように、ゆっくりと遮断されていった。
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