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長編 CLOSED CIRCUIT
CLOSED CIRCUIT -6-「遍在」

 僕が有しているもっとも古い記憶は、空だった。
 傍らには両親が居て。まだ赤ん坊の僕は何の疑問もなく空を眺めていた。
 何処か遠くの、広い野原。色とりどりの花が咲き乱れ、野草は力強く空に向かって生えている。聞こえてくるのは枝葉が擦れる音と野鳥の囀り。優しい音色は僕の心の奥底の何かに語りかける。
 母親の腕に包まれた僕は、彼女の鼓動を感じている。トクントクンと、強く命を打つ音はまるで世界の鼓動そのものだった。
 その小さな世界はそれで完結していた。
 いつまでも、そのままでいられればどれだけ幸せだったか。
 本当の幸せは。
 知らない≠ニいうことなんだから。

 優美ちゃんとの生活は概ね順調だった。
 彼女は小学生にしては凄く料理や裁縫が上手かった。まるでずっと独り暮らしをしていたみたいに。僕も料理の腕には自信があったが、包丁使いは明らかに彼女の方が上だった。繊細かつ大胆な包丁裁きは彼女の雰囲気にぴったりだった。どうしてそんなに料理が上手いのか、その理由を聞いてみたが、彼女は
「お母さんに教えられましたから」
と言うだけだった。母親に教えてもらうだけで、こんなに料理が上手くなるものなのだろうか? だとしたら、彼女には凄い料理の才能があるのかもしれない。
 僕がそう言うと彼女は笑って
「元々、手先は器用なんですよ」
と答えた。
 しかし上手いからと言って彼女にばかり料理させるわけにはいかない。ので、食事を作るのは一日ごとに交代することになった。食器は使い捨ての紙やアルミ製の物を使うので、洗う必要はない。
 僕は再び図書館に通うことにした。結局は本を読むくらいしかすることがなかったし、彼女と僕のためにも、どうしても元の世界に戻る手段を考えなければいけなかった。
 それには、やはり知識は必要だと思った。何かを知らなければ、何かを為すことなんて不可能だ。そういう意味で、知識は力になる。
 僕は彼女に不思議な親近感を覚えていた。年が離れているから恋愛感情は皆無だが、例えばそれは年が離れた兄妹みたいな感じだ。僕は一人っ子だったので、そういう年下の兄妹というのは憧れだった。友人たちは兄弟なんて邪魔なものだと言っていたが、そんなのは満たされている人間が言う台詞でしかない。満たされている人間は満たされていない人間のことは絶対に理解することは出来ない。想像しようとしても、無理だ。その想像は満たされている≠ニいう観念から生まれたものでしかない。そんな主観な想像は何の意味も持たないのだ。
 優美ちゃんも優美ちゃんで僕に懐いてきてくれている感じがする。妹がいるとは言っていたが、年上の兄妹が欲しかったのかもしれない。或いはただ単に今まで寂しかったから、その反動が来ているだけか。僕にはその判断はつかなかった。

 優美ちゃんは屈託なく笑い、よく喋る女の子だった。僕はほとんどの場合、彼女の話を聞く側に回っていた。彼女が語る色々な話を、僕は適度に相槌や自分の意見を挟みながら聞いていた。彼女の話は自分の身の回りの、例えば学校や家族や友人のことから始まり、テレビのバラエティやドラマ、映画や音楽、それになんと最近の政治の事まで話題になった。僕も政治の話題には自信がある……というより、ほとんどそれが専門に近いので必然的に詳しくなったのだが、そんな僕よりも優美ちゃんの方が正確に情勢を捉え、今何を為さねばならぬのか、解っていた。……正直言って、ショックだった。
 それだけではない。全ての知識において、彼女は僕を上回っていた。僕がそれほど多趣味ではないということもあるのだろうが、それでも彼女は凄すぎる。本来なら小学生がマルクスやヴィトゲンシュタインやノルマンディー上陸作戦やニトログリセリンや阪神タイガースの歴史について語ったり出来るはずがないのだ。
 しかし彼女は話を聞く限り、普通の女の子だった。
 北栖 優美。十一歳の小学六年生。四人家族の長女。父親は銀行員、母親は専業主婦。九歳の妹が居る。クラブ活動は陸上をしていて、専門は長距離。身体を動かすのは好きらしいが、スポーツはあまり得意ではないらしい。つまり勝敗をつけたり、チームワークでどうこうというのは苦手なようだ。成績は上のほうと言っていたが、謙遜してそう言ってるだけで、おそらく一番良いのは想像に難くない。と言うより、彼女よりも頭脳明晰な小学生を想像することが難しい。好きな科目は特になし。多分、全部好きだからだろう。趣味は読書。ミステリーが好きらしい。
 そんな女の子。
 まぁそんな女の子がユリウス・カサエルについて詳しく知っている場合もあるだろう。何がきっかけになるか解らない。
 それに彼女の話を聞くのは楽しかったから、そんなことは結局は些細なことでしかなかったのだ。

 世界の状況は全く変わる事はなかった。相変わらず空は暮れることなく、電気やガスは使えない。時間は静止したまま、再び歯車を回すことはない。でもそれでも問題はなかった。独りの時には砕かれそうだった薄弱な意志は、二人の時は屈強なものになった。それが例え見せ掛けだけの、表面的な強さであっても構わない。それで多分、充分だから。

「ねぇ、蒼良さん。ピクニックに行きませんか?」
 彼女がそう言ったのは一緒に暮らし始めて四日……僕が以前に定義した時間で……経った時だった。
「ピクニック?」
「はい。蒼良さん、本を読んでばっかりじゃないですか。たまには外に出ないと」
 確かに僕が彼女と一緒に暮らし始めてからこのかた、図書館から借りてきた本を読んでばかりいた。それはこの世界から抜け出す方法を探すためであるが、相変わらず効果は現れそうになかった。気分転換の為に外に出てみるのもいいかもしれない。或いはもしかしたら今までろくに運動もしなかったのが、僕の精神にダメージを与えていたのかもしれない。僕も彼女と同じで身体を動かすのは好きなのだ。
「うん、そうだね。身体を動かすのは悪くない。でもピクニックって言ったって、何処に行くの?」
 電車やバスはないのだ。そう遠くには行けない。
「大文字山なんてどうですか?」
「大文字?」
「はい。銀閣寺くらいまで自転車で行って、そこから歩いて大文字の文字のところまで行くんです。蒼良さんは登った事ありますか?」
 大文字……か。
「いや、送り火は見たことあるけど、登ったことはないな」
 京都の住人で、夏の風物詩の一つである五山の送り火を見たことない人間は少ないだろう。もちろん僕も見たことがある。中学一年か二年くらいの時か。クラスの女子に誘われて行ったことを思い出した。結局彼女とはそれっきりで何もなかったが。
「なら、ちょうどいいじゃないですか。行きませんか? 凄く景色が良いんですよ」
「うん。それじゃあ行ってみようか」
 僕は何気なく答えたつもりだ。それでも優美ちゃんは
「やった!」
と、本気で喜んでいるように見えた。

 それから僕たちは自転車に乗って、銀閣寺の方に向かった。準備は特にしなかった。優美ちゃんによればそれほど険しいと言う事はなく、小学生でも登れる程度らしい。飲み物や食べ物は適当に道中のコンビニで調達することにして、僕たちは手ぶらで大文字山に向かったのだ。本来なら天候が崩れた時の為の雨具くらいは必要なんだろうが、天気が変わる事のないこの世界では無用だった。
 五山の送り火。世間一般では「大文字焼き」と言われているが、正確には五山の送り火という。お盆の時に迎え入れた先祖の霊を送る意味を持つ京都の夏に欠かせない行事で、その起源は俗説こそ多々あるものの正確な由来は不明。毎年八月十六日に京都市を囲む山々に「大文字」「妙」「法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の順に火が灯る。その風景は幻想的で、儚いものがある。ある種の寂しさが京都の町を包む。それは一体今まで自分たちが何を喪ってきたか、そしてこれから何を喪っていくのか、を知ることに似ている。それは夏が終れば秋が来るように。動物が死ねば土に還るように。この世界のもっとも単純な原理。「送る」とはそういうことだ。
 そんな話を優美ちゃんとしていた。
 大文字山の道は確かに僕が思っていたよりもなだやかだった。山道というよりは殆どちゃんと舗装された道で、元々身体を動かすのが好きな僕たちは特に息を乱すこともなく、会話に不自由することはなかった。
「蒼良さん、寂しいってどういうことか解りますか?」
 郁子ちゃんは僕の前を歩きながら、尋ねてきた。僕は彼女の三歩後ろを歩いていた。
 空は相変わらず抜けるように青い。雲を、太陽を、風を、世界を使役するように包み込む空。陽光は木々の枝葉に鮮やかな陰陽を作る。綺麗な濃い緑色が、生命の瑞々しさを強調していた。まだ自分たちは生きているんだと。成長しているんだと精一杯語りかけているようだ。
 しかし何故かそれらは矛盾したもののように、僕の瞳には写った。それらは今、生きて≠ヘいないし、成長≠烽オていない。そこに停止したまま、動かない存在。まるで贋物のようだった。木々だけではない。周りの景色が全て偽者のように感じられる。空だけが妙にリアルだった。
「それは一般論を聞きたいの? それとも僕の個人的意見?」
「蒼良さんの個人的意見です」
「うーんと、そうだね」
 僕は顎を摩りながら、空を見上げて思考する。
 寂しいとは何なのか。
「言うなれば個人という概念の収束≠ゥなぁ」
「個人という概念の収束=H」
「うん。人間と人間……自分と他人が触れ合う時には、多分自分の欠片みたいなのが他人に流れ込むと思うんだ。それは同じ世界を共有する為に。人間は拡散が基本なんだ。自分を他人に分配することで、世界を形成している。
 じゃあもし他人が居なければ? 他人に分配すべき欠片は自分の裡にベクトルを向けることになる。自分自身が収束される。自分という存在が濃く濃くなっていく。その度に世界から隔離される感覚を受ける。自分は独りだ、ってね。圧縮され続けることで、密度は増して、そして永遠に沈み込んでいくことになる。そこにあるのは虚無だ。それが寂しいってこと何じゃないかな?」
 優美ちゃんは僕の言葉を頭の中で転がして吟味しているように見えた。当たり前だ。僕だって自分で言っていて、あまり理解できているとは言えない。それはただ、感覚的に思いついた。
「わたしにはちょっと解りません……」
「はは……。僕も解ってないからね」
「なんですか、もう」
 優美ちゃんは頬を膨らます。そしてそのままさっさと先に行ってしまった。
「ちょ……待ってよ、優美ちゃん」
「嫌ですよーだ」
 そう言って、優美ちゃんは山道を駆け抜けていく。……本当に速い。陸上部だというのは伊達じゃないようだ。しかし、年下の女の子に置いて行かれるというのも何だか癪なので、僕も走って彼女の後を追った。
 突然、視界が開けた。
 眼下には広がる街の景色。正面には青い山々。空はさっきよりももっと広く、もっと大きく、もっと青く蒼く見えた。遮られる物が無くなった太陽の光は、天空からまるで矢のように鋭く輝いて降り注いでくる。
 その光の中で、優美ちゃんは踊っていた。
 その瞳はしっかりと閉じられていて、両手を空に上げ、ゆっくりとステップを踏むように回転する。リズムは不規則で、しかし不規則という規則性があった。
 それは幻想的で、魅惑的で、同時に哀しい踊りだった。
「それは……何ていう踊り?」
 僕は彼女のほうに歩み寄りながら尋ねた。
「名前はありません。即興ですから」
 彼女は笑って僕の方を向いた。
「どうですか? 良い眺めでしょう?」
 そのままくるりと手を伸ばして回る優美ちゃん。
 ここはどうやら「大」の文字のところのようだ。「大」の文字は送り火の時は京都の広範囲から見ることが出来るが、逆を言えばこの「大」の文字からは京都の広範囲を見ることが出来るということだ。そして実際に市内の様子を一望できた。連なる町並み、点在する緑、そびえ立つビル……。京都独特の、新しいものと古いものが入り混じった風景だ。
「うん。凄く良い眺めだ」
 それは本当だ。かつて京都タワーに上って街並みを見下ろしたことがあるが、そんなものなんて比べ物にはならない。中心から眺めるより、一歩引いて眺めたほうが物事は美しく見える。多分それは全てのことに当てはまるはず。
「わたしが一番好きな場所です。とても寂しい感じがするから……。世界から断絶された感じが、とても好きです」
「断絶された感じ?」
「そうです。だってここって本来は死者を送る為の場所でしょう? こうやって簡単に登ってこれるとは言っても、そういうイメージってあると思うんです。意識的に隔絶されているんです、ここは」
「でも、寂しい感じが好きって珍しくない?」
「そうですか? 蒼良さんも空が好きなんでしょう? 空って寂しい感じがするじゃないですか」
 そう言われて驚いた。空が寂しいだって? 僕は今までそういう風に思ったことはない。空は優しく僕を包んでくれるものだと解釈している。
「だってあんなに大きいんですよ? 地球そのものだって大きいですけど、足元にある所為で見えない。海だって海岸線から眺めるだけでは限りがあります。まぁ海のど真ん中でボートに乗って、って場合では話が別ですけど、そういうのって凄く稀でしょう? 空は、人が一般的に視認出来る物の中で一番大きいものなんですよ。そして大きいものを見てると、自分がそこに居ても何の意味もない様な気がするんです。あそこに属しても認められないような感じがするんです。そういうのって寂しいでしょう?」
 僕は何も言わなかった。何も言いようがなかった。彼女が空をそういう風に思っているのなら、僕はそれをどうこう言う資格はない。それに……彼女の言いたいことは解らないことはない。結局人は、自分よりも大きなものに畏怖するしかないんだ。
「違いますか?」
 僕の様子を見て『否定』と取ったのだろう。彼女は訊いてきた。
「うん……。僕にとって空は……何て言うか、僕を肯定してくれる存在なんだ。僕にとって大きいって言うことは僕というちっぽけな存在を無条件で肯定してくれる事に他ならない。こういうのは解釈の違いだから、僕が正しいか優美ちゃんが正しいか、なんて意味がないけどね」
「無条件で……肯定、ですか。わたしは否定されてる気がします。ほら、『お前みたいなちっぽけな存在なんて無意味だ』って、そんな感じです」
 言われて、僕は空を見上げた。いつもと同じ青い空は、いつもと同じように僕を肯定してくれているように見えた。……あれが、僕を否定することなんてあるのだろうか?
 ……いや、あった。世界が腐蝕した時の、あの空。僕を拒絶した、あの空が。歪で不自然で濁ったあの空なら、確かに僕を否定するだろう。『なんて愚かで、弱い人間なんだ』と。
 思い出したくなくて、視線を元に戻した。優美ちゃんは僕と同じように空を眺めていた。……彼女の瞳に映っている空は、一体どんな色でどんな形をしているのだろう? それを僕が知ることは、一生ない。
「……帰りましょうか」
 しばらく空を眺めた後、彼女はポツリと呟いた。それは一体誰に向けてのものだったのか? とても空虚な言葉のように、僕には響いた。

 行きとは違って、帰りは優美ちゃんは僕の隣を歩いていた。そして相変わらず色々と僕に話しかけてきた。話題が尽きることはない。僕は答えられることは答え、答えられないことには「解らない」と言ったり、或いは言葉を濁したりした。空についての見解を述べ合ったおかげか、僕と彼女の関係は前よりも親密になった気がする。多分、それまでとは違い、初めて本音で語ったからだろう。ほんの少しだけ、彼女に近づけた気がした。
 それが気のせいだったと、少し後で知る。

 ピクニックから数日後の昼食……つまり、起きてから二回目の食事を終えた時だった。いつもとあまり代わり映えしないメニューだったが、味は悪くなかった。食後のパックの紅茶を飲みながら、僕と優美ちゃんは談笑していた。
「ねぇ、蒼良さん。多世界解釈って知ってますか?」
「多世界解釈……ってエバレットの?」
「はい。あのシュレディンガーの猫がどうだののアレです」
 ……相変わらず優美ちゃんの知識量には感心する。僕なんて多世界解釈なんてこっちに来てから知った言葉なのに。
「シュレディンガーの猫ってアレだよね? 箱の中の猫の生死は観測したときにしか決まらないとかいう……」
 それもこっちに来てから知った言葉だ。完全な文系人間の僕が、何かの目的なしにそういうことを勉強するわけがない。もちろん、その目的というのはこの世界からの解脱だが。
「はい、そうです。猫は観測される以前は生と死の状態が共存しているということになります。そして観測した後は、猫が生きている世界と猫が死んだ世界が同時に存在していることになります。多世界解釈とは簡単に言うとそういうことです」
「でもシュレディンガーの猫って多世界解釈が出る前じゃなかったっけ?」
 優美ちゃんは驚いた様に目を丸くした。
「そうです。シュレディンガーがコペンハーゲン解釈への反論みたいな感じで例えたのがシュレディンガーの猫の話です。コペンハーゲン解釈に拠れば、『波の収縮』が起こるのは人間が箱を開けて中の様子を確認した時だとなります。だとしたら、その箱を開けるまでには猫の生と死は共存していたのに、箱を開けるとどちらか一方に収縮してしまって、その状態に決まってしまうことになる。それはおかしいとシュレディンガーは言ったわけです。でも『波の収縮』を考えない多世界解釈に拠れば、箱を開けても生と死のどちらの世界もあることになるから、少なくともそれはおかしくはなくなるという話です。
 ……驚いたな。蒼良さんが多世界解釈とかシュレディンガーの猫の話とか知っていたなんて。意外です」
「うん、よく言われるよ。お前が科学の話とかしてると、明日は雨だって……」
 そのなんともない一言に、僕は違和感を覚えた。
 ……待てよ。何か、おかしくないか?
 確かに僕がたまに数学や物理の話を持ち出すと、友人たちは僕をからかってきた。何故なら彼らは僕が理系には全く興味がなく、また不得意だということを知っているからだ。だから彼らにとっては僕が理系な話をしたりすることは驚きに値することであり、意外なことなのだ。
 だが、優美ちゃんは?
 僕は優美ちゃんに自分が理系が苦手で、尚且つ興味もないと言った覚えはないし、そんな素振りも見せた覚えはない。大学生だとは言ったが、どんな学部に通っているかまでは言っていない。僕が工学部や理学部に通っている可能性だってある訳だ。それなのに、一体何故彼女にとって意外なことなのだろう?
「何が、意外なの?」
「え?」
「意外ってのは、とある物事に対しての前以っての事実が在って、それが覆ったりした時のことを言うだろう? 僕は君にその前以っての事実を教えた記憶はない」
 ……優美ちゃんの顔が見る見る強張っていく。そこには明らかに自責の色が浮かんでいた。なんて浅はかだったんだろうと自分を責めるような色が。うっかりと口を滑らせてしまった自分の愚かさを戒めるような色が。
「君は僕が物理や数学が出来なくて、そしてそういうことに全く興味がないことを知っていた。違う?」
 僕は優美ちゃんを問い詰める。優美ちゃんは一度僕の視線から逃げるように目をそらすと、再び僕の方に視線を戻した。……彼女の顔は、悲しそうに笑っていた。
「そうですね。理系が不得意だといっても、K大学の法学部に通えるほど頭は良いんですものね。ちょっと甘く見ちゃいました」
「!?」
 今度はK大学なんて具体的な名前まで出してきた。もはや間違いない。彼女は僕のことを良く知っている。とても良く知っている。
「優美ちゃん……君は……いったい……?」
 彼女は表情を引き締めると、僕に向かって淡々と告げた。
「樟乃瀬 蒼良。十九歳。身長一七六センチ、体重六十四キロ。視力は両目とも一・五。K大学法学部二回生。中学・高校と野球部に所属。守備位置は三塁。俊足のバッターとして主に打順は一番として活躍。大学ではサークルや部活動はしていない。現在、家庭教師のアルバイトをしている。初体験は十五歳の時。父親の名前は樟乃瀬 空耶(くすのせ くうや)、母親の名前は……」
「やめろ!」
 バンッ、とテーブルを叩きつける。僕は思わず叫んでいた。……聞きたくなかった。その名前を聞くと、想い出したくないことを想い出してしまうような気がしたから。
「すみません。軽率でした」
 優美ちゃんは頭を下げた。彼女は知っているのだ。僕の両親のことを。
「……いや、大声出して、悪かった。優美ちゃん、君は一体何なんだ? どうして僕のことをそんなに知っている?」
「それは……」
 言葉を濁す優美ちゃん。僕は優美ちゃんをじっと見つめる。何を言いよどんでいるのか分からないが、彼女が何かを知っているのは明白だ。僕はそれを逃す訳にはいかない。
「今はまだ喋れない、と言っても無理なんでしょうね」
 僕は顔をしかめる。今はまだ? ということは、将来的には喋れるということか? それまで待てと。
「無理だ。僕は、今すぐはっきりさせたい。正直、何か疑惑を抱えたまま、君と一緒にこれから暮らしていくことなんで出来ない」
 僕がそう言うと、優美ちゃんは少し瞳をうるませた。そして、それを隠すように固く瞼を閉じる。
 数秒経っただろうか。やがて優美ちゃんは瞳を開けた。その夜空のような瞳には鋭い光が宿っていた。まるで人を刺すような光だ。
 ゆっくりと、口を開ける
「わたしの目的は、蒼良さんを救うことです。この閉じた世界から」
「この閉じた世界? 君はこの世界の正体を知っているのか?」
「……はい」
「なら教えてくれ! この世界は何なんだ? 何故、僕はこんな世界に来なくちゃいけなかったんだ?」
「本当に、言っていいんですね?」
 ごくりと。知らずに喉を鳴らしていた。そう言った時の優美ちゃんの瞳に気圧されてしまった。それは十年かそこら生きてきただけの少女の瞳ではない。もっと深い場所を味わったことがある人間だけが放つ、圧倒的な虚空だった。
 僕は何も言うことが出来ず、黙って首肯した。
「……解りました。この世界は……」







 ――――貴方が望んだ、貴方の世界です。


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