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長編 CLOSED CIRCUIT
CLOSED CIRCUIT -5-「少女」

 沈んでいく意識の中で、今は亡き人の姿を見た気がした。
 多分、本当に気のせいだと思う。




 ……目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。
 初めに視界に飛び込んできたのは、半透明の白い円形の照明カバー。アクリル製の、何処にでもある何の変哲もない照明カバー。そして天井に張られている清潔感のある白い壁紙。窓には花柄のカーテンが引かれて、遮光されている。外は相変わらず明るい。僕の身体には毛布が掛けられていて、敷かれた布団は柔らかくて心地よい。僕はもう一度そのまま眠りに落ちようかと思ったが、隣の部屋から聞こえてくる音に驚いて、意識を覚醒させた。
 首だけを回して、その音の方を向く。ドアは開いてはいるが、角度的に隣の部屋の様子を窺い知るのは難しい。しかし、雰囲気的にそこがキッチンであることは疑いようがない。そして、その音は多分、まな板の上で何かを切っている音だ。
「……誰か、居る……!」
 息を呑んだ。心拍数が上がっていく。誰かが居るという、この緊張感。こうやって見ず識らずの僕を布団に寝かしてくれている辺り、多分良い人なんだろうが、何分他人に会うのがいつぶりか解らない。
 やがて包丁の音が止むと、足音がこちらに向かってきた。
「あら。起きてらしたんですか?」
 ドアの向こうから顔を出したのは、なんとまだ小さい少女だった。年の瀬は多分、11歳か12歳。身長は130センチ前後で、ピンクのキャミソールにデニムのスカートを穿いている。ツインテールが特徴的な、可愛らしい女の子。顔立ちは整ってはいるが、年の所為か美人というよりも愛くるしいといった表現が似合う。多分、同級生からは男女問わずに人気者だったであろうことは想像に難くない。
 しかし僕はそれよりも彼女の瞳に惹かれた。
 その瞳は僕が今まで見てきた誰の瞳よりも深い色をしていた。あまりに青い故に、黒く見えるその瞳。父の瞳も青かったが、彼女のは父とは比べ物にならないほど深い青色をしていた。それはまるで夜空のようだ。深く静まった世界を悠然と眺めるような、そんな色。
 少女は僕に向かって微笑みかけると、一旦僕の傍にお盆を置いて、窓際によってカーテンを開けた。
 真っ青な、空が見えた。
 僕が覚えている最後の色は、澱んだ海の様な碧色。寂しくて、哀しい色。しかし今の空はとても綺麗な色をしていた。
 ――良かった。これで拒絶されないで済む。
「お体の調子はどうですか? 林檎、切ったんですけどよろしかったらどうぞ」
 そう言って少女は僕の枕元に座ると、小皿とフォークを床に置いた。小皿の上にはウサギの形に切られた可愛らしい林檎が4切れほど乗っていた。
「あ、ああ。ありがとう」
 お腹が減っていた僕は、素直に好意に甘えることにする。上体を起こして、林檎に手を伸ばし、口に運ぶ。シャリ、とした歯応えが気持ちいい。林檎の仄かな酸味が口に広がっていく。美味しい。久しぶりに、物を食べて美味しいと思った。
 ……そうして、段々思い出してきた。自分が一体どうなっていたのかを。そう、僕は確かにこの世界と共に腐蝕して、そのまま――――。
「……僕は、生きて、いるのか?」
 それだけじゃない。アレだけ腐っていた身体が、ほとんど元通りになっていた。まだ本調子とまではいかないまでも、ちゃんと自分の意志で身体を滞りなく動かせるし、何より一番腐蝕していた自分の意志や思考がきちんと生き返っている。
「本当に心配しましたよ。わたしが外を歩いていたら、道端に倒れてるんですから。でも、もう大丈夫みたいですね」
 少女は本当に嬉しそうに笑いかけてくれる。凄く癒される笑顔だ。
「うん、本当にありがとう。君が助けてくれなかったら、多分僕は死んでいた」
「いえいえ。困ったときはお互い様です。特に、こんな世界では、ね」
 ……“こんな世界”では、か。
「じゃあ君も、その……ずっと独りだったんだね?」
「はい。お兄さんを見つけるまではずっと。わたしの名前は北栖 優美(きたす ゆうび)と言います。お兄さんは?」
「あ……僕は樟乃瀬 蒼良(くすのせ そら)。よろしく」
 僕は自分の名前を告げると、右手を差し出した。少女……優美ちゃんは、また微笑んで僕の手を握り返してきた。

 その後、優美ちゃんが用意してくれた食事を運んできてくれた。フレンチサラダとパンプキンスープ、サーモンマリネにフランスパンという、ちゃんとしたランチ。相当お腹が減っていたのと、今までの単調な食生活の所為か、僕はそれを一気に平らげてしまった。
「おいしかったよ。ありがとう」
「どういたしまして。でも、凄い食べっぷりでしたね。そんな風に食べられると嬉しくなっちゃいます」
 ふふ、と笑う優美ちゃん。
「うん、2、3日前からほとんど何も食べてなかったんだ」
「駄目ですよ。ちゃんと食べないと。だから倒れちゃうんですよ」
「……うん。そうだね」
 ……嘘だ。アレは栄養が足りなかったからとか、そういうものが理由ではない。もっと根本的で、根源的で、致命的な問題なのだ。でなければ、世界が腐ったりしない。
 ……そう、世界が腐っていたはずだ。しかし、この部屋は間違っても腐蝕しているようには見えなかった。空もちゃんと元に戻っている。世界はどうなったのだろう?
 僕は優美ちゃんに尋ねてみることにした。
「そうだ。優美ちゃん、僕が倒れてた場所で、何か変わったことなかった?」
「変わったこと……ですか?」
「例えば地面が割れてたり、木が折れてたりとか」
 世界が腐蝕したりとか。
「そんなことはなかったですよ。蒼良さんが倒れてただけです」
「そう……」
 ならばアレは僕の気のせいだった? ……そんな訳があるか。あの実感が気のせいで済むなら、僕が体感してる全てのことは気のせいになってしまうだろう。
 しかし今はそれは後回しだ。重要なのは、僕以外にも生きている人がいたという事実。彼女のことを、色々訊かなければいけない。
「ここは優美ちゃんの家?」
「はい。えっと、蒼良さんが倒れていたマンションから10分ほど歩いた所です。父さんと母さんと、それから妹と4人で暮らしてました」
 そう言いながら、少し表情を曇らせる優美ちゃん。もしかしたら、家族のことを思い出しているのかもしれない。……家族、か。
「優美ちゃん、いつから“この世界”に?」
 僕が尋ねると、優美ちゃんは首を傾げてうーんと唸りだした。
「こんな状況ですから具体的な時間はわかりませんけど、とにかくずっと前です。もう気が遠くなるくらい」
「うん、僕もそんな感じなんだけど、今まで会わなかったのって不思議じゃない? 家近いんだから、逢う機会だってあっただろうし」
「ああ。わたし、ずっと旅してましたから。他の人探しに」
「え……? 旅してたって……」
「はい。もしかしたら市外に出たら他の人もいるかもしれないって……。だから、自転車でずっと。近畿はだいたい回りました」
 なんともないように、優美ちゃんは言ってのけた。僕は絶句した。こんな少女が、自転車を漕いで近畿中を回るなんて……。僕は他人なんていないと思い込んで、ずっとこの世界からの解脱方法を探していたというのに。
 ……そもそも。どうして僕は他人がいないと思っていたのだろう?
 その思いが事実に拠らないことは明らかだった。僕は京都市の中心部くらいしか確かめなかった。限定された範囲だけで証明しても意味が無い。“無い”の証明は“在る”のそれより困難だ。それなのに、心の奥底の、有無を言わせない何かが、『この世界には自分しかいない』と、まるで自分の目で確かめたように僕に告げてきた。
 結局それは嘘だった訳だが。
「それで帰って来た時にちょうど蒼良さんが倒れてたんですよ」
「なるほど」
 僕は納得した素振りを見せる。胸に一片の疑問を残しつつも。
「とにかく、この世界の情報を交換し合わない? いつまでもこんな処に居るわけには行かない。一人では解らなかったことも、二人なら解るかもしれないよ?」
 優美ちゃんは首肯する。そして真面目な顔つきで
「それでは、何から話しましょう?」
と、尋ねて来た。……なるほど。こんな顔も出来るんだな。少女の表情は年相応の幼さを残しながらも、彼女が聡明であるということを端的に表しているように思えた。
「うん、じゃあさ。どうして僕たちはこの世界に来てしまったんだと思う?」
 その質問をぶつけると、優美ちゃんはきょとんと目を丸くした。……僕は今、何か間違ったことを言ったのだろうか?
「あの、蒼良さん。どうして“来てしまった”なんですか?」
「は?」
 僕は間抜けな声を出してしまった。優美ちゃんの質問の意味が良く解らない所為だ。
「わたしたちが“来てしまった”というより、世界が“変わってしまった”と考えるほうが普通じゃないんですか? わたしはそう考えてましたけど」
「世界が“変わってしまった”……」
 ……確かにそういう風に考えることも出来るか。でも……
「それはちょっと無理があると思うよ。もし僕ら以外にも人が……と言うより、変化が“世界”だけに留まっていたら、僕もそう考えてたと思う。でも、僕ら以外の人がいないという事実から考えれば、僕らだけが“違う世界”に飛ばされたと考えたほうが自然じゃない?」
「……つまり、まともな世界では普通の人たちは今でもちゃんと生活しているけど、わたしたちだけこんな状況に陥っている、ってことですか?」
「そういうこと。“周りの人がいなくなった”んじゃなくて、彼らから見て“僕らがいなくなった”んだ。確証はないけど」
「……なるほど。賢いんですね、蒼良さんって」
 目を輝かせて言う優美ちゃん。……そういう趣味はないとはいえ、年下の女の子にそんな目で見つめられると流石に照れてしまう。
 コホンと照れ隠しの咳払いをして、
「それじゃあ、こっちに来てしまった時の状況を詳しく教えてくれないかな?」
「う〜ん……と」
と、彼女は遠い記憶を手探りで辿るように思案し始めた。もうだいぶ昔のことだから、仕方ないだろう。やがて優美ちゃんは淡々と語り始めた。
「えっと、確か自分の部屋で本を読んでいました。正確な時間はわからないけど、お昼ごはんを食べた後でした。いきなりくらっと目眩がして……それは直ぐに治りました。でも点けてた電気とかコンポとかが消えてて、おかしいなって。ヒューズが飛んだんだと思って、お母さんに言いに行こうとしたら、さっきまで台所に居たはずなのにいなくて。それだけじゃなくて、家中の時計も止まってるし。不安になって外に出てみたら……」
「誰もいなかった、と?」
「はい。それから隣近所のお宅を訪ねてみても誰も出なくて。いったい、みんな何処に消えたんだろうって、凄く不安になりました。何故か電気もガスも使えないし、電話も使えなくて。しばらく泣きっぱなしだったんですよ。何が起こっているのかも、何をしたらいいのかも解らないし、そんな不安をぶつける相手もいなくて、凄く寂しかったんです」
 優美ちゃんは苦笑しながら言う。こんなことを思い出しながらも、苦笑できる優美ちゃんは強いと思う。大抵の人はこんな状況に陥ったら、泣いてしまうだろう。不安とか焦りは、裡に抱え込んでいるままだと自分の手に負えないくらいに体積を増して、心を犯していく。不安や焦りを“誰か”に向かって口にするだけで、それは大幅に軽減できる。しかしやはり“誰か”はいないのだ。
 そんな中で泣いてしまうのは仕方ない。それがまだ幼い少女だったらなおさらだ。そのままずっと涙に身を沈めたままでいたとしてもおかしくない。
「それじゃ駄目だって思ったんです。だから、“誰か”を探しに市外に出ました。後はさっき話したのと同じです」
「そう……。話を聞く限り、こっちの世界に飛ばされるようなきっかけはないみたいだね?」
「はい。突然でした。蒼良さんはどうだったんですか?」
「僕もあんまり変わらないよ。三条通を歩いてて、いきなり目眩に襲われたんだ。暑かったから、最初は熱射病かとも思ったけど。その後で、とりあえずその界隈を探してみたけど、やっぱり人はいなかった。詳しく探す気にもなれなかった」
「何故ですか?」
 不思議そうに優美ちゃんが尋ねる。
「何かそういう確信があったんだ。だから僕はこの世界から抜け出す方法を探した。……結局、何にも方法はなかったけどね。それでいつの間にか、精神的にも肉体的にも弱っていったんだ。最終的には倒れてしまった。そこを優美ちゃんに助けられたって訳」
 ……世界と僕が腐蝕し始めていたことは黙っていた。言ったところで当事者である僕以外には理解できないだろうし、これ以上優美ちゃんに心配を掛ける訳にはいかなかった。
「……だとすると、私たちだけがこの世界に来てしまったのは、只の偶然なんでしょうか?」
「分からないな。“きっかけ”はないにしろ、“理由”はあるかも知れない。僕たち二人に共通することがあるとかね。でもそんなこと探してたらキリがない。例えば血液型だとか誕生日だとか出身地だとか。今まで体験してきたことかも知れない。僕と君だけに共通して、他の人に当てはまらないことなんて、探すのは不可能だ」
「そうですね。じゃあ、これからどうします?」
「……しばらくこのまま生活するしかないだろうね。もしかしたらいつか戻れるかも知れない」
「蒼良さんが頑張っても、抜け出す方法を見つけられなかったんですからね……。時が来るまで、待つしかないですね」
 少し残念そうに優美ちゃんは言う。そりゃそうだ。僕だって一刻も早くこんな世界からは抜け出したい。それに僕とは違って彼女の場合は直ぐにでも家族と会いたいだろう。この歳の子供の孤独を埋めてくれるのは、何よりも家族なのだ。
 僕も。僕もそうだったから。
「うん。それしかないと思う。でも大丈夫だよ」
「?」
「今は……独りじゃないじゃないか。寂しくはなくなるよ。二人で生活したらいい。ずっと独り暮らしだったから、家族が増えるのは新鮮なんだ。その……僕で、良ければだけど」
 優美ちゃんは赤く頬を染めて、笑った。
「……はいっ!」
 本当に彼女の笑顔は素敵だ。今までここまで笑顔が素敵な人には逢ったことはない。他人を癒して、暖めるような笑顔。
「じゃあ。これからもよろしく、優美ちゃん」
 僕も笑って、右手を差し出す。彼女の笑みには遠く及ばないだろうが、精一杯笑ってみた。
「こちらこそっ! これからもよろしくお願いします!」
 それが通じてくれたのだろうか。彼女は先程よりもさらに破顔して、僕の右手を再び強く握った。

 それからしばらくして、僕の身体は完全に元通りになってくれた。起き上がって軽く運動してみたが、何処にも異常は見られなかった。
 僕たちは優美ちゃんの家で過す事にした。僕の家でも狭いということはないのだが、エレベータを使わないでマンションの5階を上り下りするのははっきり言って面倒くさかったし、優美ちゃんの事を思えばこっちで暮らす方が何かと安心できるだろうと思ったからだ。
 部屋はさっきまで僕が寝ていた所が空いているということで、僕はそこを寝室に使わせて貰うことになった。元々は父親の書斎らしいので、僕が使っても問題ないだろう。
 優美ちゃんの家は3LDKの一軒家だった。4人家族の中流家庭が家を建てたらこうなるだろうというある種完璧な家屋。家の中には家族の温かみが未だに残っており、この家族がどれだけ幸せだったかは容易に想像できる。一緒のテーブルで一緒の食事を食べて、テレビのバラエティ番組を見て一緒に笑って、意見の相違で言い争いをして、寂しかったら両親の布団の中で一緒に寝て。そんな当たり前の家族生活を営んでいた家。
 僕が遠い過去に失ってしまった、ごく当たり前の生活。少しだけ羨ましいと思う。
   僕は一度、家に帰って身の回りのものを持ってこようと思って、その旨を優美ちゃんに伝えた。すると、彼女は
「わたしも一緒に行っていいですか?」
と、言ってきた。
「男の独り暮らしの部屋なんて、見ても仕方ないよ?」
「でも見てみたいんです」
「まぁいいけど」
 別にそこまでして断る理由はない。それにそんなに大した事じゃない。なのに
「やったー!」
と、彼女は大喜びした。

 そうして僕らは僕のマンションに向かった。
「わぁ。広いですねぇ」
 部屋に入った優美ちゃんの第一声がそれだった。彼女には独り暮らししていると言ってあるので、1ルームを想像していたのだろう。だとすれば、3LDKのこの部屋は確かに広いと感じるだろう。
「適当に寛いでてよ。さっさと荷物まとめるから」
「ゆっくりでいいですよー」
 そう言いながら、彼女は世話しなく視線を動かして、部屋を観察している。そこまでまじまじと見られると、何か恥ずかしいものがある。
「あの。そんなに珍しいものはないだろう?」
 ……ない、はずだ。リビングにあるのは26インチの液晶テレビとテレビ台の中のDVDレコーダ、二人がけのソファーとテーブル、壁には一時半を指して止まってる時計と7月のカレンダー。キッチンのほうに目を向ければ内容量365リットルの冷蔵庫、その横に金属製のラックがあって、上から3段目に電子レンジが、4段目にはオーブントースターが載っている。ちなみに普段なら2段目に5枚切りの食パンが載っているのだが、今はない。炊飯器はシンクの横に置いてあり、シンクの下には組み込まれた食器洗い乾燥機が付いている。
 ……珍しいものはない。なのに
「いえ、珍しいですよ」
と、彼女は笑いながら言った。
「他の人の家って行った事ないですから。だから珍しいんです」
「そうなの? 友達の家とかは?」
「いえ。一度も」
 珍しいな。友達は多そうなのに。しかし、そういう人間もいるだろう。そんなものは些細な偶然の積み重ねで幾らでも作られる。
 別に見られて困るようなものはないので、僕は彼女のしたいようにさせてあげることにした。
「こんなので良ければ、見たいのなら幾らでも見てていいよ。じゃあちょっと待っててね」
「はいっ!」
 彼女の元気な返事を聞いてから、僕は自室に入った。
 持って行く荷物といっても少ししかない。少しの服と枕。それから愛用の髭剃りと歯ブラシ。それだけだった。
 洗濯をすることが出来ないので、必然的に着られる服は少なくなっていった。毎日着替える訳ではないが、例えば寝汗を掻いた時なんかは着替える。今ではまともに着られる服は二、三着だけになっていた。何処かで調達しなければいけないだろう。
 枕や髭剃りや歯ブラシも、今までの使い慣れたものが使いたかっただけだ。特に枕は重要だ。僕は枕が代われば寝つきが悪くなる人間だ。いや、僕だけでなく大体の人がそうなのだと思うが。歯ブラシも髭剃りの刃もそろそろ新しいのに替えなければいけないが、まだ使えそう。まだ使えるものを棄てるのはなんだか忍びなかった。
 僕はそれらをボストンバックに詰め込む。枕が嵩張ってバックはパンパンに膨れ上がったが、何とかチャックは閉まってくれた。不細工な形に変形したバックを右肩に掛けると、僕はリビングに戻った。
 優美ちゃんは冷蔵庫の中を物色していた。扉を開けて顔を中に突っ込んでいる姿は、何か可愛らしい。しかし中に残っているのは火を通したりする調理が必要なものばかりで、食べられるものは残っていない。
「優美ちゃん、食べられそうなものは中には残ってないよ」
 僕が声をかけると、彼女は驚いて振り返った。
「え、いえ。その……蒼良さんがどんなものが好きか、見てただけですから」
「僕の好きなもの?」
「はい。独り暮らしってことは、食事とかは自分で作られるんでしょう? 自分で作るんだったらやっぱり好きなものを作るでしょう? だったら冷蔵庫の中にあるのは必然と蒼良さんの好きなものになるってことじゃないですか」
 彼女の言うことは確かにその通りだ。栄養のバランスは考えるとはいえ、やはり食事は自分の好きなものを自然と選んでしまう。
「見てる限り、魚が多い気がするんですけど?」
「うん。肉よりも魚の方が好きだね。特に青魚かな? 季節は違うけど秋刀魚とか」
「へぇ。分かりました」
「? 分かったって何が?」
「いえ、こっちの話です」
 くぷぷ、と笑いを噛み締める優美ちゃん。本当に一つ一つの仕草が可愛い。欲情するとかそういうものではなくて、例えば護ってあげたくなってくるような無垢であどけない様子。
 まるで妹が出来たみたいだ。
「荷物も纏めたし、それじゃあ帰ろうか」
「はいっ!」
 僕が言うと、優美ちゃんは冷蔵庫の扉を閉めて、僕の傍に駆け寄ってきた。
 部屋から出ようと玄関の扉を開けたとき、ふと振り返って部屋中を一瞥した。
 もう何年も独りで住んでいる、見慣れた景色。見慣れた色。故に褪せて、朽ちている。幾ら優美ちゃんにとって珍しかろうが、僕にとって此処は懐古する必要すらない場所なのだ。しかしそういう問題を別にして。この部屋は腐食し始めているように見えた。それは直接この部屋が腐り始めているわけではなく。この部屋に満ちている“樟乃瀬 蒼良”の残滓が腐っているのだ。
 くらり、と目眩がする。“僕”という基盤が腐って歪む。意識が飛びそうになり、躯の自由が一瞬外界の力に奪われる。倒れる――と思った矢先、僕の背中を小さな掌が支えてくれた。
「だ、大丈夫ですか? また身体の調子が?」
 優美ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。僕はそれに頷きながら
「大丈夫。ちょっと目眩がしただけだから。もう、大丈夫」
 体勢を整える。目眩は刹那で、今はもう何ともない。部屋を眺めてみると、残滓の腐蝕はなくなっていた。胸を撫で下ろす。アレが錯覚には思えないが、この前に比べれば軽いものだ。だから大丈夫。
 しかし、視線を落とすと、そこにはまだ心配そうに見上げている優美ちゃんが居た。僕は彼女の頭に手を置いて出来る限り優しく言った。
「ありがとう。大丈夫だから」
「本当に?」
「本当だよ。さぁ、行こう」
 僕は軽快に外に出た。それを見てようやく安心したのか、優美ちゃんは表情を崩して安心したように溜息をついた。

「蒼良さん」
「ん?」
 連れ立って歩きながら、優美ちゃんが言った。
「元の世界に帰れるといいですね」
「そうだね。一緒に帰ろう」
「……はい」
 優美ちゃんは頬を高潮させる。
 ――目が赤らんでいたのは、多分気のせいだろう。


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