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長編 CLOSED CIRCUIT
CLOSED CIRCUIT -3-「侵蝕」

 “最悪”とは、ずっと死のことだと思っていた。
 誰に倣った訳でもないが、今まで生きていた中で、死が最悪だと言う事を自然と知っていた。
 それは違った。
 死はあくまで終りでしかない。終りであるから、何処にも往けない。何も出来ない。“最終”であり、“最悪”ではない。
 “最悪”とは。
 終ってはいないのに、何処にも往けないこと。何も出来ないこと。
 僕は。
 それを知った。





 出来れば外れて欲しいと思っていた予想が、現実のものになってしまった。
 太陽の位置が変わっていないと言うこと。時計の針が止まっているということ。この二つの事象が意味することは一つしかない。

 文字通り。
 時間が止まってしまっているのだ。

 時間が止まっている、ということは何を意味するのだろうか?
 残念ながら僕は理系人間ではないので、そういう話には疎い。だが、時間が止まっているということはこう言い換えられないだろうか?
「変化の停止」

 物事は変動する。例えば走ってる自動車の位置が一秒後には違うように。例えば一秒後の風の速度や向きが違うように。例えば一秒後には微少であっても赤ちゃんが成長しているように。
 だから、もしその“一秒”がなかったとしたら?
 自動車は移動せず、風の速度や向きは同じまま止まり、赤ちゃんの成長も停止する。
 世界は、時間が存在するからこそ、その存在を確かにする。世界は時間と同義なのだ。
 じゃあ、この時間が止まった世界の中で動く、僕は何なのだろう?
「は、はははははははは」
 笑い声が起こる。誰でもない、自分の口から。この事象を嘲るように。もはや、この事象は僕が考えて理解したり出来る範疇のものではない。必要なのは納得し、認めることだ。この世界の存在を。おそらく、僕はしばらくこの世界で生きていかなければいけないから。
「はははは……くく……」
 そう。独りで。
 生きていかなければいけないから。
 生きて、逝かなければいけないから。
「くく……くぅ……」
 涙が、滲む。
 悔しいのか。寂しいのか。辛いのか。
 涙の意味は、自分でも分からない。

 適当な公園を見つけて、中に入る。小さな平凡な公園で、遊具は滑り台と鉄棒とブランコだけ。しかし最近補修でもされたのか、遊具にはペンキが剥がれているような所はなく、鮮やかな色で彩られていた。
 僕はベンチに座って、空を見上げる。
 空は相変わらず青かった。時間が停止しているんだから、当たり前か。天候が変わることなんてありえないんだから。雲も太陽も、さっきと変わらない位置に鎮座している。そしてそれらを隷属させるかのように、空が堂々とそびえ立っている。
 やはり空を見ていると落ち着く。例えばそれは幼い頃、不安でしょうがない時に母親に抱かれた時みたいに。例えばそれは幼い頃、疲れ果てて父親の背中で眠ってしまった時みたいに。そんな問答無用な安心感を感じる。
「……家に、戻るか」
 空を見上げたまま、僕は呟いた。

 僕の家は10階建てのマンションの5階にある。15年ほど前に竣工したマンションで、僕たちは完成してすぐにここに引っ越してきた。ちょうど僕が大きくなってきた頃で、それまで住んでいたマンションでは狭くなってきていたのだ。3LDKで立地条件が良かったこともあり、値段もそこそこしたらしいが、あまり無駄遣いをする家庭ではなかったからか、金には結構余裕があったらしい。三人で生活するには申し分なかった。ただ、今の僕には、少し広すぎる。
 マンションはがらんとしていた。
 いつもなら感じる人の気配を、今日は全く感じない。マンション全体が息を潜めている、いや、息をしていないみたいに閉塞している。深い海の底に居るみたいに、息苦しい。
 エレベータが止まっていたので、裏側に回って非常階段を登っていく。今まで非常階段を使用したことはなかったのだが、表の華やかさをは裏腹に、裏側はとても冷たかった。エントランスホールは様々な色彩に満ちていて、窓ガラスの外から惜しみない太陽の光が降り注いでいる。今は点いていないが、天井には蛍光灯がいたるところに付いている。暗い所を探すのが難しいくらい。対して非常階段は灰一色。コンクリートが剥き出しになったまま。おそらく世界にこれ以上の冷たい色は存在しないだろう、と思ってしまうくらいに、その色は排他的だった。窓も小さなものが、ポツンと付いているだけだ。唯一の明かりである非常灯ですら、今は点いてない。
 まるで、人の有様を見てるみたいだった。表は着飾り華々しいが、裏面はひどく冷たい。乱雑に溢れているモノの大半が、そんな二面性を持っている。モノはヒトが作ったのだから、ヒトと同じ性質を持っているのは不思議ではない。
 五階に辿りついて、廊下を真っ直ぐ進む。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつの扉を超えて、ようやく自分の部屋である506号室に着いた。僕はこれらの扉の向こうの住人たちをよく知らない。せいぜい朝、出会って会釈する程度。どんな家族構成をして、どんな仕事に就いているのか、全く知らない。向こうも僕が大学生をしている、ということくらいしか知らないだろう。
 所詮、人間関係なんてそんなものだ。一昔前の「近所づきあい」なんて今では存在し得ない。人は、どんどん閉鎖的に、排他的になってきている。それは進化なのか、退化なのか。それを決めるのは、きっともっと後世の人間だろう。
 僕はポケットから鍵を取り出して、扉を開けた。
 やはりどんな状況に陥ったとしても、自宅というものは自分を迎え入れてくれるらしい。
 自宅は出てきた時と全く変わっていなかった。変わる可能性は皆無だから、当然と言えば当然だ。
 自分の部屋に入って、鞄を部屋の隅に放り投げ、身体をベッドに預ける。その瞬間、疲労が怒涛のように押しよせ、意識を飲み込んでしまった。
 それだけ僕は肉体的にも精神的にも疲弊していたんだろう。そのままその水面に身を委ねた。

 ポツン、と。何か雫のようなモノが垂れた。それはポツポツと段々勢いを増してき、やがて雨になった。僕はその雨の中心で、雫に打たれている。
 その雫は何色なのか。僕にはそれが分からない。その雫の色が知覚出来ない。風景すべての色彩が、モノクロだった。まるで古い映画のフィルムのように。
 足元は雫が満ちて小さな溜りになっている。怪しくぬめるその溜りは、まるで世界を歪めたよう。
 どうして、この雫はこんなにぬめってるんだろう、と不思議に思う。普通の液体にしては、粘性がありすぎる気がする。
 チャプ、と。裸足の足裏にその雫がこべりつく。それはジュクジュクと段々僕の内部に侵蝕していく。
 何だろう? 僕はそれに凄く身に覚えがある。
 それは僕の足の指先から、足を通り、腰、胸、手、頭……。身体の隅々まで巡り、細胞そのものを作り変えかえない勢いで、侵蝕していく。
 僕は……僕は……。
 ――――――。
 そこで意識は目覚めた。おそらく、その先を見たくなかったから。夢の世界から現実に、自我を引き戻したのだ。

 瞼を開きかけた瞬間、視界が紅く染まった。この世界のあらゆる赤を凝縮させたような鮮やかな赤で、はっきり言って綺麗だった。いつまでも見ていたかったが、そうもいかない。赤は薄れていって、白い光を瞼越しに感じるようになった。僕はゆっくりと確かめるように、瞼を開いた。
「ん……」
 眩しさに、思わず手で遮光する。意識が混濁して、自分の状況が理解できない。どうしてこんなに明るいんだろう? 今、何時だ?
 寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計に手をやる。短針は1と2の間を、長針は6を越えたあたりを指していた。
「1時……半……?」
 なんて時間まで寝てるんだ。焦りが僕を覚醒させていく。慌てて上体を起こして、辺りを見回す。いつもと変わらない部屋。カーテンが引かれていない窓からは、陽光が部屋に入ってきていた。高圧的な夏の日差し。その割に全然暑くないのが不思議だ。
「あ……そう、か。そうだったな」
 その事実に直面して、ようやく思い出した。今は、1時半でしかありえないということを。
「時間が止まってたんだ……」
 徐々に思い出していく。眠る前に僕の身に起こった、最悪な事態を。現在進行形で侵蝕しつつある、最悪な現状を。
 寒気がする。気付けば僕の衣服は汗でベトベトだった。それだけじゃない。頭の上から水を被った様に、僕は全身ずぶ濡れだった。
「くそ……」
 暑さを感じないんだから、外からの要因で汗をかいたわけではない。それが夢見が悪い所為だということは明らかだった。その証拠に僕の心臓は今見たばかりの夢に興奮し、……或いは怯えて、強く鼓動している。
 ただ。
 僕は自分が見た夢の内容を全く覚えていない。
 苛立たしくなって、髪をくしゃくしゃと掻きながら、ベッドから降りる。そのままキッチンに直行し、冷蔵庫を開けて、冷えていないミネラル・ウォーターをコップに注がずに飲む。さらりとした液体が体内に入り込んでゆく。凄く心地よい。
「……一体、どれくらい寝てたんだろう?」
 一息ついてから、その疑問を口にする。眠気が全くないこと、そして身体が気だるいことから、相当寝ていたことは分かる。だがそれは何時間なのか? 1時間? 2時間? 3時間? 或いは24時間か? 全く分からない。
「……腹、減ったな」
 腹の底が飢餓を訴えて低い音を立てる。胃が唸っている。胃の中に何も入っていないからだ。こんな状況に陥ろうと、生命を保持するための欲は問題なく働いている。
 冷蔵庫を開けて、何か食べれそうなものを探す。電気もガスも使えないのだから、それを考慮しないといけない。とりあえず野菜室にあったリンゴを齧って、後は適当に野菜を取り出す。それからハムとマヨネーズ。パンはラックの上にある。それらを適当にスライスして、簡易のサンドウィッチを作る。味なんてどうでもいい。ただこの欲を満たせればよかった。

 ある程度欲を満たすと、僕は再び自室に戻った。そしてこれからのことを考える。
 食料に問題はない。時間が止まっている、ということの数少ない利点。つまり、物が腐るということはないからだ。ガスと電気が使えないので、食べられるものに限りはあるが、栄養面では大丈夫だろう。いざとなったらサプリメントを摂ればいい。
 水も問題ない。世の中には呆れ返るほどの飲料水が売られている。それこそ僕が知り得ないほどの。冷えても温まってもいないが、喉を潤すのには充分だ。ただ僕の好きなコーラとコーヒーを飲むことは出来ないだろうが。この二つは肉体的というよりは精神的嗜好に近いので、飲めなければストレスが溜まることは間違いない。僕にとってその二つは酒や煙草に近いものなのだ。しかし我慢出来ないことはない。
 これから僕は。
 元の世界に戻れるまでこの世界で生きていかなければいけないのだから。それがいつになるか分からないけど、生きていかなければいけないから。
 この程度のことで挫ける訳にはいかない。
「絶対に……生きて還ってやる……!」
 歯を鳴らす。
 それは僕をこんな目に遭わせた“何か”に抗うように、自然と漏れた言葉だった。


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