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長編 CLOSED CIRCUIT
CLOSED CIRCUIT -2-「閉鎖」

 一体、これは、何なのだろうか?
 唐突に視界に映った現状が理解できず、僕はただ自問自答するしか出来なかった。
 一体、これは、何なのか?
 もちろん、僕がそれを知るはずがない。だから僕自身に問うこと自体限りなく不毛なものであることは明白だったが、それでも問わざるを得ない。
 他に問う人が居ないのだから。
「何だよ、これ……」
 よろよろと立ち上がりながら、僕は思わず呟く。まだ少し重い頭を無理矢理回し、辺りの状況を確認する。
 いない。
 やっぱりいない。
 僕以外の人間が存在しない。


 僕は、世界に独り存在していた。


 さっきまですぐそこに、肩が触れ合う位近くに人が居たはずなのに。手を伸ばせば誰かに触れられるはずなのに。
 今は、僕の手は何も掴むことは出来ない。
 得体の知れない物が胸の中に込み上げる。不安とも焦燥とも違う、それを遙かに超越した感情。暴力的な嘔吐感の所為で胃液が逆流してくる。先程とはまた違った意味での嫌な汗が額に滲み出る。
 理解が出来ない。頭脳が思考することを拒否する。予期外のことに、脳が拒絶反応を示している。
「……駄目、だ。それじゃあ」
 ぶれる意識を無理やり定着させる。脳に血液を送り、無理やり働かせる。こんな所で、思考を止めている訳には行かない。
 よく考えろ。考え得る全ての可能性を考えろ。一体、今、何が起こっている?
 いや、違う。その前に確かめなければいけない。果たしてこの現象はどの範囲で起こっているのか? もしかすると、半径数十メートルの出来事なのかも知れないじゃないか。
 僕はおぼつかない足取りで今歩いていた道を引き返した。

 河原町三条に出て、河原町通りを南下する。先程までの騒音が妄想の様に思えてくるほど静かだった。歩道には誰もいなかったし、車は全て止まっていた。運転席に人の影も見えない。太陽だけが高い所で変わらず燃え続けていた。
 京都市内でおそらく最も人が多い河原町四条についた。ゆっくりと辺りを見回す。高島屋の前で待ち合わせをする人、信号待ちをする人、四条通を、そして河原町通を歩いている人。いつもなら呆れるくらいの人影が見えるが、今は驚くほど見晴らしが良かった。生まれて初めて、僕は河原町四条をゆっくりと眺めることが出来た。しかし今の状況では素直に喜べない。こんなことはあってはいけないことなのだ。
 それからしばらく、僕は四条通、烏丸通、五条通と歩いて見たが結果は同じだった。人どころか、鳥や虫や動物すら存在を確認できない。しかし、どうしても諦めたくない。否、認めたくない一心で僕は歩き続けた。

 世界は無音だった。
 かつて味わったことがないくらいの無音が、この世界に満ちていた。もしかしたら自分の聴覚が喪われてしまったのではないか、と勘違いするくらいに。だから時々、意味のないひとりごとを言ってみたりする。そうやって、自分の聴覚がまだ遮断されていないということを確かめるのだ。しかしその言葉が本当に自分の耳を通して聞こえているのかを確かめる術はない
 「闇」という漢字は門構えの中に、音が入っている。つまり、音が閉ざされた状態だ。闇とは一般に、視覚的なことを表すときに使うが、本当は聴覚的な事象なのだ。本当の闇とは、今、僕が感じていることに他ならない。
 故に、怖かった。人が原初から闇を恐れたように。人が須らく闇を怖がるように。僕もこの闇に恐怖した。沈黙は嫌いではない。むしろ五月蝿いのが苦手で、深夜の、ひっそりとした時間が好きだった。
 しかし、今のこの状況は沈黙なんて生易しいものではない。圧倒的な無音。人がいなくなっただけでこれほどの無音が生まれるとは、思ってもいなかった。無音が鼓膜を圧迫し、脳に刻み込まれる。
 だからだろうか。先ほどから震えが止まらない。背筋が凍る。恍惚的な悪寒に、身を震わせる。色んな意味で昇天してしまいそうだ。さっきまでの暑さが何処かに吹き飛んだみたいに――――。
 そのとき。突然、圧倒的な違和感に襲われた。多分、それは今やってきた訳ではなく、おそらく僕が“この世界”に紛れ込んだ時に既に存在していたのだろう。僕がそれに気付かなかっただけで。
 ようやく気付いた。本当に、さっきまでの暑さが吹き飛んでいたのだ。肉体的な暑さを感じない。あの凶暴な暑さが、今はない。最初は錯覚だと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
 かと言って、寒いというわけでもない。恐怖から来る精神的な、内部からの寒さは未だ感じているものの、外部からの寒さというものは感じない。
 もしかしたら、と思う。もしかしたら、僕の触覚が、遮断されているのではないか?
 試しに、頬っぺたをつねってみる。……痛い。それにつねった痕が少しだけ熱い。ということは、別に僕の触覚が無くなった訳ではないようだ。
 では、何故、僕は気温を感じないんだろう?
 言うなれば、この状況はまるで“気温という概念が喪くなった”ようだ。
 ……。ああ。そういう事か。
 おそらく、本当に“気温という概念が喪くなった”んだろう。
 人が居なくなったんだ。そんな概念くらい、喪くなってもなんらおかしくはない。
 それに、そちらの方が僕としてはありがたい。あんな茹だるような暑さを考えたら、こちらの方がだいぶ過ごしやすい。
 しかし、気温を感じないということはとても変な感じだった。人は常に温度を感じて生きている。気温もそうだし、身に着けているものもそう。この……いや、正しい世界のなかで温度を持っていないものは存在しない。だから、何かに触れて感じているということは、同時にその温度を感じているということなのだ。
 しかし今はどうだろう? 僕は空気に触れている。その存在を感じている。しかしその熱を感じていない。感じているのに、感じていない。その矛盾が僕の意識を犯していく。
 何も聞こえないから、聴覚が喪われたのではないかと思う。
 何も感じないから、触覚が喪われたのではないかと思う。
 五感のうち、二つが擬似的に欠落しているという状況。
 ……本当に。おかしくなりそうだ。

「……はぁはぁはぁ」
 しばらく歩き続けて、七条通に差し掛かったところで、とうとう僕は立ち止まってしまった。ただ歩いていただけなのに、信じられないほど息が上がっている。恐怖が、焦燥が、絶望が、僕の鼓動を速めていく。無音が世界を占めているからか、鼓動の音は耳元まではっきりと聞こえてきていた。胸から吐き出される血流が全身を巡っていくのを感じる。同時に、その血流が僕の身体の中から何かを攫っていくのも感じる。身体が枯渇していくのが分かる。
 確かに暑さは感じない。だが、それでもやはり枯渇はするのだ。身体が水分を求めている。軽い目眩すら感じる。ふらつく意識をその場に何とか留めて、僕はしょうがないから水分補給の為に近くのコンビニに入った。
「……あれ?」
 コンビニの中は少し暗かった。光は窓越しからの太陽光だけで、天井に付いている電灯は点いていなかったからだ。そうしてみると、コンビニは案外採光性が悪いということに気づいた。周りに高層ビルばかり立ち並んでいるのだから、仕方がないだろうが。それに、誰もコンビニに採光性なんて求めていない。
 しかし、何故電灯が点いていないのだろう? まさか同時に何本も電灯が切れるということもないだろうに。
「…………」
 不安に似た感情を抱いて、店の奥の冷蔵庫に向かう。ギンギンに冷えたコーラが飲みたかった。この枯渇を充分に満たしてくれるのは、おそらくコーラだけだ。甘いものは逆に喉が渇くと言われているが、問題はない。僕は喉が渇いている訳ではないのだから。
 観音開きの冷蔵庫の扉を開けて、僕は顔をしかめた。そして一つ理解する。どうして電灯が点いていないのか、ということ。
「……電気が止まっているの、か」
 そう独りごちて、僕は目の前に陳列してあるペットボトルのコーラを手にとってみた。そのペットボトルはどんなに試行錯誤してみても、冷たいと言い切ることは出来なかった。コーラは冷やされるために生まれてくるのだ。それが全然冷えていないということは、コーラの存在理由を根こそぎ奪い取っていることになる。あまりに残酷だ。
 一応、確認してみたが他のどの飲み物も冷えてはいなかった。いや、正確に言うなら。僕はそのペットボトルからは温度を感じることが出来なかった。つまり、“温度という概念の消失”は何も気温だけに当てはまるということではない、ということだ。これならば、冷蔵庫が稼動していても意味がないのではないだろうか?
 しかし冷蔵庫が稼動していないのは、また別問題だった。このコンビニの全ての電化製品が稼動していないことは明らかだった。つまり、このコンビニには電気が供給されていないのだ。
 そう言えば、僕はさっき歩いていた時、信号を全く見なかった。見る余裕もなかったし、見る必要もなかったからだが、もしかしたら信号も点いていなかったのかも知れない。ということは、この停電……と言っていいのか分からない事象は、町全体で起こっている可能性がある。
 ……もう、訳の分からない事態はこりごりだ。僕はうんざりしながら、取り合えず烏龍茶を取って、コンビニを後にした。

 歩き続けても結果は一緒だった。少なくともこの界隈には人の姿を認めることはできなかった。僕はとぼとぼと三条通のアーケードに戻ってきた。何故かは自分でも分からない。多分、この事象が始まった所にいることによって、この事象が終わるのではないかという希望を持っていたのだろう。
 そんな希望なんて、無意味なのに。
「さて……どうしましょうかね」
 自ずと言葉が口から出る。あまりひとりごとを言う癖は持ってはいないが、何かを言っていないと不安になる。誰もいないということが、何も聞こえないということがこんなにつらいことだとは思わなかった。
 とにかく現状ではっきりしてることを整理しよう。
 1つめ。この世界にはおそらく自分しかいない。あの嫌になるくらいの数の人が、全員一瞬にしていなくなってしまった。ちょっと調べただけで言い切るのはどうかと思うが、本格的に確かめる術がないのだから仕方がない。少なくとも僕が行動できる範囲ではこの定義は成り立つのだから、他の地域でも成り立つと考えられる。
 ……いや。術はある。
 僕は免許を持っていないので、車を運転することは出来ない。今まで運転したこともない。誰もいないということは警官もいないということであり、無免許運転で捕まることもない。従って車を運転すること自体には何の問題もないだろう。しかし全くのド素人がハンドルを握って、操作を誤って事故るということは十分考えられる。そして事故ってしまった時に僕を助けてくれる人、怪我の手当てをしてくれる人が今はいないということを考えれば、車に乗るのはあまり得策ではないだろう。それでも原付や自転車を使えば活動範囲は大きく広げることが出来る。いざとなったら、歩けばいい。他の地域を探すことなんて、実は容易い。
 しかし。僕には、この世界には僕以外の人間が存在しないという確信があった。その確信が何処から来るのかは分からなかったが、その確信は疑いようのないものであり、よって他の誰かを探しに行くなんて無駄な行為をする気はさらさらなかった。
 2つめ。電気が止まっている。そして先ほど確認してみたが水道も止まっていた。多分、ガスも止まっているだろう。
 何故?
 冷静に考えてみたら不思議な話だ。発電所や浄水場には確かに今、人はいないと思われる。だから電気や水道が止まっているというのはおかしくないようにも一瞬思ったが、考えを改めた。この世界には――少なくとも京都市内には――つい先ほどまで電力が供給され、蛇口から水が流れていた。嫌な表現になるが、“人が消えた”瞬間には機能していたことになる。そして今では機能は停止している。僕はあまり、というか全然発電所のメカニズムについて詳しくないが、“人が消えた”からといってすぐに機能を停止するように出来ているのだろうか? “誰か”機能を止める人間が必要なんじゃないか? そしてそもそもそんな人が居たら機能を停止させる訳がない。もしその人が僕と同じような体験をしているとしても、ライフラインを止めるなんていう愚かなことはするはずない。この矛盾はなんなんだ?
 また、同じようなことが車にも言える。色々見て回った時にも建物やガードレールに突っ込んだ自動車は一つも見当たらなかった。また、進行方向とは別の方向を向いたりしている自動車もなかった。全ての自動車が道路に、物静かに鎮座していた。運転手が突然消えたらそんなことにはならない。“誰か”がブレーキを踏まない限り。そしてその“誰か”はいない。
 3つめ。この世界の全ての温度が喪われている。気温も、物体の温度も、何もかも。“自分以外”の温度は存在しなかった。
「はぁ」
 溜息をついた。状況を確認すればするほど不可解だ。これが夢なら納得できる。夢の中はこの世界で唯一、物理法則から解き放たれる場所だからだ。夢の中なら、人は空を飛べる。それを考えたら人が突然いなくなったり、電気や水道が止まったとしても全然おかしくない。
 しかし残念ながらこれは夢ではない。僕の心の奥底から確信が沸き起こる。これは問答無用に現実なのだ。……少なくとも。“僕にとっては”。

 一瞬間、空白が過ぎる。ほんの一瞬だけ、全てが真っ白になる。思考も、視界も。真っ白くなったと知覚できないくらいの一刹那。
 それで思考がクリアになったのだろうか。
 ふと思いついてジーンズのポケットに手を突っ込む。今まで他人を探すのに躍起になってすっかり忘れていた。他人と接触する方法なんて他にもあるじゃないか。そう思いながら、僕は自分の携帯電話を手に取った。折りたたみ式の携帯電話。もう3年も使っている代物で、カメラは付いているものの画素数は現在のものと比べることすら不毛だし、背面ディスプレイなんて便利なものも付いていない。ところどころ傷が入ったりしているが、まだまだ充分使える。僕はまだ使えるものを捨てたりしない。
 ある種の希望を抱きながら、僕は折りたたんでいた携帯電話を開いた。
「…………え?」
 僕の希望は呆気なく裏切られた。携帯電話のディスプレイは真黒に染まり、何も表示されていない。適当にボタンを押してみるがそれでも全く反応がない。電源ボタンを押し続けてみても、復帰する様子は微塵もない。昨日充電したばかりだから、電池切れということはありえない。
「何だってんだよ、くそ……」
 そう呟いて、僕は近くのコンビニに走る。コンビニにある携帯充電器を試してみようと思ったのだ。もしかしたら、本当に電池が切れているだけかもしれない。全ての希望ある可能性は試すべきだ。最悪はその後でいい。
 コンビニに辿り着いて、思わず舌打ちする。そのコンビニは自動ドアだった。電気が止まっている今、自動ドアなんて邪魔もの以外の何者でもない。僕は自分の体が通るくらいまで無理やり自動ドアを開けて、中に入った。僕は急いで棚から自分の機種に合う充電器を探し出し、それから自分の携帯電話の接続口にセットする。
 ――――。
 携帯電話の充電開始のランプはつかなかった。いくらいじっても、つかなかった。試しに店にある充電器を全部確かめてみたが、全部無駄だった。そもそも接続口の形が合わないものがほとんどだったし、あったとしても充電開始のランプはつかなかった。
 一気に自分の心が沈みこんでいくのが分かる。泥沼に足を踏み込み、ずるずると埋まって行く感覚。何かに捕まりたくても、辺りには何もない。手を伸ばしても掴み取ることは出来ず、そして誰も僕の手を掴んではくれない。
 とぼとぼと店を後にした時、店の前にある公衆電話が目に付いた。僕は最後のひとかけらの希望をそれに掛けてみることにした。昔、電話は停電していても通話は出来ると聞いたことがある。だから電力が通っていなくとも電話できる可能性はある。
 ドクン、と胸が鼓動する。受話器を取ろうとする手が震える。もし、これが繋がらなかったら? 少なくとも僕が知る限りの外界との接触手段は完全に絶たれることになる。再び、喉が渇く。そう言えばさっきお茶を飲んでから何も飲んでいない。何か、飲みたい……。
 そうやって無駄なことを考えることで、僕は“最悪”を先延ばしにしようとしていた。出来れば、“最悪”は味わいたくない。もし僕がこのまま受話器を置いたら、少なくとも“最悪”は訪れることはない。「もしかしたら公衆電話は繋がるかもしれない」という空虚な希望を抱いていることが出来る。それは“最悪”ではない。しかし“最低”だ。僕は“最低”よりも“最悪”の方がマシだと考える。
 一度、深呼吸して鼓動を落ち着かせる。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる。おそらく僕はその答えを知っているにも関わらず。その答えを享受しないがために、僕は自分を励ます。
 そして、僕は受話器を手にとって、耳に当てた。

 …………………………………………………………。

 無音。あの「ツー」という音すらせず、ただ無音。逆にこちらの音が吸い込まれそうな錯覚を受けるほど、無音。耳が痛くなるほどの、無音。
 ――――――――。
 最悪、だった。

 今まで、僕はお世辞にも優れた生活をしてきたとは言えない。そんな生活の中で沢山辛い目にあったりもしてきた。それは一般人の経験よりもさらに酷いものであった、と残念ながら僕は断言できる。そして今はこんな“最悪”な事象に巻き込まれている。僕の何が悪かったと言うんだ? ちょっと普通じゃないが、取り柄のないただの大学生じゃないか。
 猛烈に誰かに愚痴りたくなった。でもその“誰か”はいない。愚痴は外に向けて吐くものだが、外に誰もいないとそのまま宙に放置され、結局自分の内に戻ってくることになる。しかも何かしらの付随物をつけて。限りなく不毛。
「はぁ」
 また溜息をつく。途方もなく重い溜息だった。
「……とにかく」
 とにかく出来ることをしよう。こんな所で不貞腐れている時ではない。こんな所で何も分からずに、死ぬわけにはいかない。“最悪”ではあるが、まだ絶望に堕ちたりはしていない。
 よくよく考えれば、それほど悲観するようなことでもない気がした。少なくとも命を保つ、という意味では。
 飲食料に困ることはないのだ。それだけでだいぶマシだ。僕はこの世界で生き長らえることは可能なのだ。……望んだら、の話だが。
 生活用水は鴨川を使う。誰もいないのだから、気兼ねなく使うことが出来る。これくらいの特権はあっていいだろう。何故ならこの世界の持ち主は僕だと言っても過言ではないのだから。
 さて。
 思考を再開しよう。
 僕はペットボトルのお茶を抱えて、日陰に座り込んだ。日陰でも日向でも温度を感じないので変わらないはずなのだが、僕は気分的に日陰を選んでいた。太陽は燦々と輝いて、自身の光を地上に投げかけている。それに曝されるのは、例え温度を感じないとしても、ご免だ。意識が勘違いして、僕の体温を上昇させるかもしれない。外からの温度は感じないが、内からの温度は感じるということは既に分かっている。
 ふと空を見上げる。何故か知らないが僕は考え事をする時に空を見上げる癖がある。赤ん坊の頃、座ることが可能になったときから僕は空を見ていた、と両親から聞いたことがある。あの全てを受け入れてくれそうな広大な青が、心を落ち着けてくれるからだろうか? それとも何処までも落ちていきそうな錯覚さえ受けるからだろうか? 或いは……僕は空から生まれたのかもしれない。
 今日の空も無限大の青を内包していた。太陽はほぼ一番高い所で輝き、白い雲がぽつんと散在する。僕が一番好きなセッティングだった。出来れば陽光はもう少し控えめにしてほしいが。そんなに頑張らなくても――――。
 …………………………。
「ちょっと、待て」
 僕は空を睨み付けて、愕然とした。おかしい。絶対におかしい。

 何で太陽はまだあんな位置にいるんだ?

 自分の見間違いかと思ったが、その可能性はほぼゼロに等しい。周りの位置関係からそれは分かる。太陽は数時間前とほぼ同じ位置にいた。
 ……数時間前?
 そういえば、この現象に巻き込まれてから、僕は時計を一度も見ていない。一体、あれからどれだけの時間が経っているのだろう? あれだけ歩き回ったのだから相当な時間が経っているはずだ。
 それを確かめるべく、僕は時計を探した。僕は腕時計をつけていないし、いつも時計代わりにしている携帯電話も今は使えない。時計がある場所……ある場所……。……コンビニ、か。何をするにしても真っ先にコンビニを思いつく自分に少し呆れながら、僕はさっきのコンビニを目指した。
 時計はおにぎりや弁当が陳列している棚の上に掛かっていた。円形のアナログ時計。入り口からちょうど正面に位置するため、存在は簡単に確認できた。しかし針までは読み取れない。少し焦れながら、先ほど半開きにしていた自動ドアを通って、僕は店内に入る。出来れば予想が外れてくれていれば、と思いながら。
 ………………。
 もしこの世界に神がいるとするなら、多分、僕のことを嫌っているんだろう。
 時計の針は一時半の少し前を指したまま、止まっていた。
 本当に、最悪、だった。


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