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音楽イメージ小説
秋爽

 海に来ていた。
 足元で軋む砂の感触が心地良い。一歩を踏み出すたびに沈み込む感覚が、この体がきちんと万有引力の法則に縛られていると感じさせてくれる。ただ引き合うだけの力。斥力は存在しない。
 時刻は夕方。空は茜色に染まって、太陽の端は水平線に架かっている。夕陽が私の影をくっきりと砂浜に形作る。わたしの影はわたし自身よりも大きく、歪んでいた。
 しばらく砂の感触を楽しみながら歩き続ける。もう10月の浜辺にはわたし以外はもちろん誰もおらず、ほとんど凪に近い波音と踏み込む砂音しか、わたしの鼓膜を揺らしていない。穏やかな世界が広がっている。悪い表現をするなら、そこが世界の終焉のようだった。少なくとも世界の終焉はこれだけ穏やかな方がいいとわたしは思う。
 海に突き出るような形の防波堤が見えてくる。そこで砂浜は途切れている。わたしはその防波堤に登った。よく釣り人が竿を垂らしていそうな、そんな防波堤だった。もっともわたしは釣りなんてやったことどころか生で見たこともないので、ただの想像上のことでしかないのだけど。
 そのまま防波堤の先まで歩く。そこから見た海の景色は格別だった。海面は、まるで元は青色だったことを忘れるほど、鮮やかな橙色に塗りつぶされていた。わたしはこれほど橙色に染まった海を見るの初めてで、思わず圧倒された。
「来たのか」
 背後から声。振り返ると、スーツ姿の男性が一人、右手に花束を抱えて立っていた。
「……春綺(はるき)さん」
「あれから一年、か。結局君は今日まで一度もここに来なかったな」
 春綺さんはゆっくりとした歩調で歩み寄り、わたしの横に並ぶ。そして抱えていた花束をそっとその場に置き、数刻手を合わせて黙祷した。
「穏やかな海だな」
 顔を上げ、橙色の海を見つめて春綺さんは言った。春綺さんの言うとおり、水面はさっきから何の変化もなく、ゆるやかに波打っていた。その穏やかさは、まるで物理法則から解き放たれたよう。あらゆる事象からの影響を拒否し、ただそれ自身で完結しているかのような平穏さがあった。
「そうですね。まるで他者を拒絶しているみたいに、平穏です」
「それでも、こんな穏やかな波でも、きちんと人は殺せるんだな」
 抑揚のない、平坦な声だった。まるで眼前に広がる水面のように。
「いや、違うな。こんな穏やかな波で死ぬには、当人に死ぬ意志がなければ不可能だ。……秋人(あきと)のように」
 柔らかいさざなみが聞こえた。
 高浪秋人(たかなみあきと)は一年前、この穏やかな海で死んだ。この他者を拒絶するような穏やかな海を凶器として、自分の命を殺した。
 投身自殺だった。
 遺書はなかった。しかし、周りの状況などから見ても事故の可能性は極めて低く、自殺しか考えられなかった。
 何故、自殺したのか。遺書がない以上、その理由をわたしたちが知ることは出来ない。一時期、根も葉もない酷い噂が流れたことがあった。しかし、そんなことはすべてでたらめだと言う事は、わたしには分かっている。よく、分かっている。
 わたしと秋人くんは彼が自殺する一年前……つまり今から二年前の燃え巡るような暑い夏のある日に、出逢った。
 出逢い方としては、極めて平凡な類のものだった思う。小説や映画であるような、情熱的や運命的な出逢いではない。何処にでも誰にでもある、普遍的な出逢いだった。もちろん、出逢った瞬間に恋に落ちるようなこともなかった。
 しかし、わたしにとってはやはりそれは運命だったのだと思う。少なくとも、そう信じている。運命は誰かに決めてもらうものではない。自分で定義するものだ。
 そんな運命の出逢いから半年後に、わたしたちは付き合うことになった。どちらが告白したと言う訳でもない。「流れ」で、という表現はあまり好きではないが、しかしその表現が適切だとも思う。何故なら、わたしたちには「付き合う」という選択肢以外は存在しなかったのだから。
 そして、付き合い始めて半年後に秋人くんは死んだ。
 奇しくも、わたしたちが出逢った海に身を投げて。

 しばらく、お互いに何も言えないまま、ぼうっと立ち尽くして、凪いだ水面を見つめていた。
 出逢いの海は、すなわち想い出の海でもある。この海でわたしたちは沢山の想い出を築き上げた。
 しかし、想い出が沢山あるその中に、これほど穏やかで、オレンジの海は存在しない。想い出にない水面は、“今”が想い出のどれにも属さない未来だということを感じさせる。
 今は、秋人くんが生きていたあの頃のどれにも属さない。過去から解離している。
 わたしは、本当に“秋人くんと付き合っていたわたし”なんだろうか? 秋人くんと付き合っていたわたしは実は別に居て、わたしは違う時間軸に迷い込んでしまったのだろうか?
 そんな無為な思考を一人重ねる。
 多分、それはただの現実逃避。ただ、認めたくないだけ、だ。わたしが確信している絶望的な真実に。
 ……いまさら、何を言っているんだろう。わたしはちゃんと覚悟を決めて、この海に来たのに。
「春綺さん、帰らないんですか?」
「爽花(さやか)さんは?」
「わたしはもう少しだけ、残っています」
 だって、まだここに来た目的を達成していないのだから。
「そうか、なら俺も残っていよう。心配だしな」
 春綺さんは言った。春綺さんの性格はそれなりに分かっているつもりだ。きっと、こんな人の少ない場所に女の子が独りでいるのを心配してくれたんだろう。だけど、今の状況では少し迷惑だった。遠まわしに拒絶することにする。
「大丈夫ですよ。わたしも子供じゃありませんから」
「大丈夫じゃない。流石に、大事な弟の恋人を死なせる訳にはいかないからな」
 思わず、息を、呑んだ。
「何を言って」
「俺がここを去ったら、飛び込むつもりだろう? 秋人と同じように」
 …………。
 まいった、な。
「なんで気付いたんですか?」
 そんな素振りは全く見せていないつもりだった。これでも演技は上手いと自負してたのに。
「勘、だよ」
 春綺さんのその理由を聞いて、思わず口元が綻んだ。
「やっぱり兄弟ですね。秋人くんも勘、鋭かったですから」
「何故? 何故、爽花さんがここで死ぬ必要がある?」
「……」
 答えないわたしに、春綺さんは一歩詰め寄る。
「責任を感じているのか? 秋人が死んだのは自分の所為だって」
「責任ではないです。これはわたし自身のエゴです。秋人くんが死んだということに関して、わたし自身を許せないだけです」
 わたしに責任はない。何故なら、本当にわたしが悪いかどうか誰にも分からないのだから。責任は他人に対して負うべきものだ。今回の件に関して、他人に責められる謂れはない。
 しかし、それではわたしは納得できない。わたしの心の、外れた歯車のように空回りする感情を慰めてやることはできない。大槌で穿たれた空白のように空虚な感情を満たしてやることは出来ない。
 救済が必要だ。
「……少なくとも、秋人が死んだのは君の所為だとは思っているんだろう?」
「はい」
 頷くわたしに春綺さんは声を荒げる。
「馬鹿な。遺書も遺っていなかったのに、君が原因かどうかなんて」
「分かりますよ。じゃなかったら、こんなところで自殺なんてする訳ないじゃないですか」
 そう。
 わたしに関して何か含むところがない限り。
 わたしたちにとって想い出深いこの海で、自らの命を絶ったりはしない。
 これはわたしへの無言の復讐以外のなにものでもないではないか。
 わたしには分かっていた。秋人くんはわたしの所為で死んだんだって。わたしはそう確信している。
「だからわたしは許せないんですよ。秋人くんを殺してしまったわたしが。あんなに大好きだった秋人くんを殺してしまったわたしが」
「だから死ぬのか?」
「はい。だから殺します」
 そのためにここに来たのだから。
 今日、ここに来た目的はただ一つ。わたしがわたしを殺すためだ。
「…………」
 春綺さんは苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめた。そして胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。煙草の先からたゆたう煙が、秋の風に巻かれて拡散する。わたしはその光景をぼうっと眺めている。
 しばらく無言の時間が続いた。春綺さんは何も言わない。わたしも何も言わない。わたしたちの間に横たわる沈黙は、わたしが今まで体験してきたどの夜よりも重く、また今まで見てきたどの闇よりも濃かった
 沈黙を切り裂いたのは、春綺さんだった。
「その決意は変わらないんだな?」
「はい。言っておきますけど、どう説得しようと無駄ですよ。わたしの決意は、あなた如きに打ち崩せるような脆弱なものではありません。今のわたしは無敵ですから」
 一年も掛けて作り上げた決意だ。そう簡単にやぶられはしない。
「ああ、多分そうだろうな。なんだかんだで、俺と君は他人だ。止める権利はない。……しかし、俺は止めなければいけない。これは権利ではない。俺の義務だ」
 そう言って、春綺さんは一枚の封筒を取り出した。
「まず、謝っておく。もしこれを見せなかったことで君を苦しめていたのだとしたら、すまなかった」
 ひらひらと封筒を揺らす春綺さん。わたしにはその封筒が何なのか、心当たりは全くなかった。しかし、何故だろう? それを見て、心臓が少しだけ波打ったのは。
「……なんですか、それ?」
 戸惑いを隠すように、抑揚のない口調で尋ねる。春綺さんは目を細めて、答えた。
「遺書だよ。高浪秋人の遺書だ」
「ちょっ、ちょっと待ってください! 秋人くんの遺書って……どういうことですか!」
 秋人くんの遺書はいくら探しても見つからなかったはずだ。秋人くんの部屋はもちろん、この世界のどこにも存在しないはずなんだ。どうしてその遺書を春綺さんは持っているというのか?
「死ぬ前に、俺のところに郵送していたらしい。公表しないでくれ、と書かれていたので、今までずっと秘密にしていた」
「そんな……そんなことって……」
 わたしはあまりのことに茫然としていた。秋人くんが遺書を遺していたことにではない。その遺書をわたしではなく、春綺さん宛てに遺していたことに。そして、再び確信する。やはり秋人くんはわたしのことを恨んでいる。
「それともうひとつ。ある時期が来たら、これを君に見せて欲しいということも書かれていた」
「わたしに……?」
「もともと、君のための遺書だ。俺は伝達役を承ったに過ぎない。……読んでやってくれ」
 春綺さんは三つ折にされた便箋をわたしに手渡した。広げてみると、便箋いっぱいに見慣れた字が綴られていた。決してきれいとは言えないが、独特の細長の字体。その文字で、わたしへの言葉が紡がれていた。

 

『爽花へ

 俺が死んで、君はどんな風に感じただろうか? 俺の遺体を前に泣いてくれたのだろうか? 俺には、残念ながら君のそんな姿を想像することが出来ない。君は、本当に俺のことを愛してくれていたのか? 君が俺のことを愛してくれていたという確信を、俺は持てないでいる。君の顔を、仕種を見ていて、君から俺に対する愛を感じることは出来なかった。
 それを確認するために、俺は死を選ぶ。俺の死を通して、君の愛を確認する。俺自身が確認できないのは残念だが、仕方がない。それは兄貴に委ねることにする。俺にとって、それで充分だ。




 最後に一言だけ。本当なら面と向かって言うべきなんだろうけれど、言う機会を失った言葉を添えておく。

 さよなら。

 高浪秋人』


「……あ……あ……」
 遺書を読み終えたわたしは、膝から崩れ落ちた。
 わたしが秋人くんを愛していたと、感じられなかった……? わたしはあれほど、秋人くんを愛していたのに……?
 頭の中に、名前のつけられない感情が入り込んで、渦巻いていた。それはわたしの意識を攪拌して、何処かに追いやるくらい激しいものだった。
 わたしは、秋人くんが死んだときと同じように、涙を流した。泣いていなければ、自我を保っていられなかった。泣いて、そして叫んでいなければ、自分が別の自分になってしまいそうだった。泣くということには、自分を今ここに定着させておく作用があるのだと、わたしは秋人くんが死んだときに学んだ。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろう? わたしは何を間違えたのだろうか? わたしはきちんと最善を尽くして秋人くんのことを愛していたはずなのに。何故伝わらなかったのか。何故分かってもらえなかったのか。
 ……分かってもらえなかった?
 違う。わたしも秋人くんの想いが分からなかった。わたしはある次元においては間違えてはいなかったが、別の次元では致命的なまでに間違えていた。そしてそれは、秋人くんの方にも当てはまるだろう。
 そして、結局わたしたちはその間違いを最期まで埋めることは出来なかった。埋めようとはしていたのかも知れないが、互いに別の溝を一生懸命脇目もふらずに埋めていただけだったのだ。
「……分かっただろう。君は悪くはない」
 春綺さんが声をかける。
 そう、おそらく、きっと。わたしはわたしを許すことが出来る。だって、わたしは秋人くんを許しているから。なら、秋人くんと同じ罪を持つ自分自身だって、許すことが出来るはず。
 わたしは、悪くない。
 涙を袖口で拭って、立ち上がる。そして、春綺さんに微笑を向ける。感謝の意をこめて。
「……」
 わたしの眼を見つめていた春綺さんは、それまで強張らせていた表情を少しだけ緩めた。わたしの目つきから、何かを感じ取ったのだろう。
 さぁ……っと、風が耳元を通り過ぎる。陸から海に吹き抜ける風は、少し冷たかった。さっきまではまだ暖かかったのに、秋という季節は急激に風が冷たくなる。もう少ししたら、さらに冷気をまといはじめるだろう。見上げた空は、さきほどまでの茜色の上に藍色が重ねられ始めていた。太陽はすでに水平線の向こうに消えてしまっている。
「……風が出てきたな。そろそろ帰ろう」
「あ、ちょっとだけ……。この遺書、わたしの好きなように使っても、構わないですか?」
 わたしの問いかけに春綺さんは少しだけ唸り、
「その遺書は君に宛てられたものだ。爽花さんの好きなようにしたらいいが……?」
「ありがとうございます」
 わたしは遺書を再び三つ折にし、それを破った。何かの祈りのように、ゆっくりと、丁寧に。春綺さんはその光景を黙って見つめていた。
 やがて、たくさんのかけらに分かれた遺書を、手で包みこむ。ほのかにだが温もりを感じたのは気のせいだろうか? いや、気のせいではない。だって、これは秋人くんの『さよなら』なのだから。
 さよならを返してあげなければいけない。
 高くて遠い秋の空に両手を掲げ、そして開く。無数の『さよなら』は秋の風に舞い、そして波に返されていった。

end



 KOTOKO「秋爽」より