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音楽イメージ小説
Imaginary affair

 ねぇ、怖がることなんて、ないんだよ?

 三月中旬の風は、まだ少し冷たい気がした。
 受験も終わり、所用で学校に来ていた私は、職員室を出ると、ふと気に掛かって美術室を覗くことにした。
 職員室がある北校舎を出て、南校舎へ。そして階段を登って、美術室に向かう。
 春休みに入っているので、校舎には人がいない。電灯も点かず、沈黙を保っている校舎は、まるで私の過ぎ去った時間の象徴のようだった。……いや、過去そのものなんだろう。私は確かにこの校舎で三年間を過したのだから。そして、この校舎で学ぶという未来は、もう存在しない。
 グラウンドで運動部が練習をしているのだろうか、遠い掛け声が聞こえる。よくある、喧騒。対して、私の周りはコツコツと私の足音だけが響く。昔は私もたくさんの友人達に囲まれて、喧騒の中にいた。今は一人で、靴音を鳴らしている。喧騒は遠い。その距離が、少し寂寥を感じさせる。
 美術室の前に立つ。鍵はしまっているだろう、と思って引き戸の取っ手に指をかけると、予想外に何の抵抗もなくするっと開いた。その瞬間、嗅ぎ慣れたオイルの匂いが鼻についた。そして、僅かな人の気配。人のいる音。
「……誰かいるの?」
 私が声を掛けると、「ん?」という小さな頷きが聞こえた。
「あれ、逸果(いつか)じゃない、どうしたの?」
「どうしたの?はこっちの台詞。何で絵衣子(えいこ)がいるのよ?」
 美術室には、私と同じ美術部の絵衣子がいた。春休みは美術部の活動はないので、絵衣子がいることに驚いた。そもそも私たち三年はもう活動に参加する必要はない。夏休みで三年は引退だ。まぁ私以外の部員は、活動する余裕があったからちょくちょく顔を出していたみたいではあるが。
「絵、描いてるの」
 そう言った絵衣子はちらりと視線を自分のキャンバスに向ける。イーゼルに掛けられたFの50号のキャンバス。普段は20号くらいの大きさで描いているので、結構大きめだ。
「なんで今頃? 卒業制作は終わったじゃない」
「これはわたし個人で描いてるものだから。美術部のことは関係ないよ」
 そう言う絵衣子の目つきは、力強い。美術部に関係はなくても遊びで描いている訳ではなさそうだ。
「ふ〜ん……ところで、何を描いているの? モチーフも何にもないじゃん」
 絵衣子が向かい合っているキャンバスの向こうには、モチーフになるようなものは何も置かれていない。まだ描き始めたところなのか、キャンバスの上にはまだ色は乗っていない。下書きの段階だ。
「モチーフなんて、必要ないよ。私はよく覚えているから」
「へぇ……?」
 今まで絵衣子がモチーフなしで絵を描いたことなんで一度もないはず。いったい、何の心境の変化なんだろう?
「でさ、逸果はなんでここに来たの?」
 絵衣子の問いに私は答えず、私は窓の方に歩き出す。窓は開けられていて、白いカーテンが風に靡いていた。にも関わらず、この部屋は色々な匂いがした。絵の具の匂いと油の匂いが混じった、独特の匂い。私はこの匂いが好きだった。この匂いは、私の青春の匂いそのものだから。美術室に刻まみこまれた、私の青春たち。
 窓の手すりにもたれ掛かるようにして、外を見た。外の色彩は、来る春に向けて、身支度をしているように見えた。風が真正面から私にぶつかり、冬に比べて少しだけ伸びた私の髪の毛を揺らした。耳がこそばゆい。
「……私さ」
「うん?」
 背中越しの問いかけに、絵衣子はキャンバスに視線を向けたまま、答える。
「私さ、少し怖いんだ」
「怖い? 何が?」
「未来。これからの私の、未来」
「それは、逸果が東京の大学に行くからでしょう?」
 私は四月から東京の大学に通うことになっていた。もちろん、東京で一人暮らしだ。色んなことが初めての体験となる。それはほとんどの人が通過することだ。だけど……。
「絵衣子は……このままあがるもんね。美術部のみんなもあがる。他校に行くにしても、ほとんどは県内の学校。……東京まで行くのは私だけ」
 うちの高校は、中・高・大の一貫校だ。つまり、ほとんどの人はこのまま同じ大学に進学する。中学校から同じ人はもう六年の付き合いになる。小学校の六年と、中学高校の六年は全然違う。中学、高校という多感な青春時代を一緒にすごした友人との絆は強い。実際、美術部のメンバーもほとんど中学、高校と変わってない。そして、また同じ大学に通う。……私以外は。
 私が東京の大学に行こうと思ったのは、宇宙について勉強したかったからだ。あの、空のさらに上に広がる、無限の空間。いや、無限かどうかは私には分からない。昔からたくさんの人たちが思いを馳せて、結局未だにすべてを解き明かせていない。そこが凄く魅力的だった。系列の大学には、残念ながら宇宙物理学を勉強できるようなところがなく、どうせ他の大学に行くなら質の高い勉強が出来る大学に行きたいと思ったのだ。
「逸果は凄いと思うよ。東京の国立大学なんて、受かりたくても受からない人ばかりなのに。よく、勉強してたじゃない」
 確かに、がむしゃらに勉強はしていた気がする。一番ひどい時期には、睡眠時間がたったの三時間という夜が、一週間続いた時もあった。元々、天才肌な訳じゃない。とにかく量をこなさなければ、合格することは不可能だった。しかし……。
「勉強しているうちはね、心に余裕がなかったから不安なんて全く感じなかった。だけど、合格して余裕が出たらね、逆に未来についての不安はどんどん強くなっていった。私を蝕んでいった。……不思議だね、不安っていう感情は、心に余裕がなきゃ感じないんだね」
「未来が怖くない人なんて、いないと思うよ」
 私は振り返った。絵衣子は相変わらず、絵を描き続けていた。
「絵衣子も怖い?」
 絵衣子はふるふると首を横に振った。
「だって、わたしの未来は決まっているようなものじゃない。親に言われて中学受験をして、そこから先は自分では何かを決めるなんてことはほとんどしなかった。そのまま高校にあがって、そして同じように大学にあがる。わたしは逸果みたいに勉強したいことなんてないし、やりたいこともない。流されるように、普通に大学に進む。そこに、怖がるような要素なんてないでしょう? まるで転がる坂道みたいに、わたしが何かを選ぶって今までほとんどしてこなかった」
 私から、絵衣子の顔は見えない。今、いったいどんな表情を浮かべているんだろう?
「わたしと違って、逸果はちゃんと選んだ。だから、逸果にとって未来は怖いことなんだよ。逸果の未来は、逸果が知らないことで満ち溢れているから。怖いことは、悪いことじゃない。だけどね、あえて言わせて貰うなら、その恐怖とか不安とか、そういったものは逸果の想像上のことなんだよ」
「想像上のこと?」
 頷く絵衣子。
「そう。逸果は自分の未来が分からないから、自分の未来について悪い想像ばっかりしてるんだよ。独り暮らしはうまく行くんだろうか? 学校の勉強にはついていけるんだろうか? 新しい友達は出来るんだろうか? とかね。……ねぇ、逸果。怖がることなんて、ないんだよ? もしかすると、実際にそうなっちゃうのかもしれない。学校の勉強についていけなくて留年しちゃったりするかもしれないし、友達が出来なくて独りで寂しい思いをするかもしれない。でもそうなったらそうなったで、その時に悩めばいいんだよ。今から怖がったって、どうしようもない。未来がきちんと分かるのは、悪魔だけ。逸果は悪魔じゃない、人間なんだ。……それにね」
「それに?」
「逸果なら、きっと大丈夫。そんな悪い予想は絶対に当たらない。だって、逸果なら自分が出来ることを精一杯頑張るでしょう? 努力したら、未来はその人にとって良い方向に向かうんだよ」
 とても穏やかな優しい口調で、絵衣子は言う。その音は、私の心の奥底の“何か”に響いて、緩やかな波を引き起こした。私の胸の波動。それに共鳴するように、窓から流れ込む風が唄を歌う。はねるように。流れるように。綺麗な歌声で、朗らかに歌い、私の耳をくすぐる。 「わたしはそう信じているから」
 振り返った絵衣子の顔には、まるで春のような爽やかな笑顔が浮かんでいた。
「……うん」
 私は目を瞑る。心に生まれた、たくさんの感情を見つめる為に。不安や恐怖や歓喜や哀愁。様々な感情が、心の中に去来する。それはまるで私が今までスケッチブックに落書いた絵のように、さまざまな形や色をしていて。そしてそれらは確かに私が残してきた足跡だった。
 風がさらさらと耳元を流れていく。それが凄く心地良くて……。私はしばらくその風の歌を聴いていた。さっきまでは少し肌寒かった風は、今では仄かに温もりを帯びていた。
 胸元で、右手を握る。胸の中の何かを掴むように。
「絵衣子の言うとおり。確かに未来のことを怖がっても仕方がない。だから、私はもう怖がらない。私の未来を信じて、未来に続く今日を精一杯生きるよ。でもね、この不安や恐怖を忘れたくはない。例え私の想像上の不安なんだとしても、これも立派な私の一部なんだから。スケッチブックに残して、置いておくよ」
「そうだね、うん、それがいいと思うよ。いつまでも、大事に残しておくと良いよ」
 絵衣子はまた笑った。つられて、私も口の端がほころぶ。
「それで、たまに見返して笑ってやるんだ。『ほら、こんな想像上のことを怖がっていたんだ』って。多分、未来の私から見たらさっきまでの私なんて滑稽極まりないだろうから」
「その時はわたしも一緒に見せてね。なんだかおもしろそう」
 からかうような絵衣子の口調。私は慌てて、
「やだよ、恥ずかしい」
「なんでよ〜。いいじゃん、わたしと逸果の仲じゃん」
「やだったらや〜だ!」
 ひとしきりケタケタと笑いあった後、私は静かに言った。
「……ありがとね、絵衣子」
「どういたしまして」
「私、そろそろ帰るよ。絵衣子は?」
「んー、これの続き描きたいし、まだ居るよ」
「そうか。それじゃあ、またね」
「うん、またね」
 私たちはいつもの通りの別れの言葉を交わして、美術室を後にした。
 私は、サヨナラやバイバイは言わない。別れの言葉は決まって「またね」だ。
 ……また。
 また、会おうね。

 それからしばらくは大学入学や独り暮らしの準備が忙しく、学校に顔を出す暇がなかった。
 書類の提出が終わり、独り暮らしの荷物も大体東京に送り終えたときには、三月ももう終わろうとしていた。
 見送りには、美術部のみんなとクラスの友人たちが何人か来てくれた。実はあまり具体的な出発の日時を他の人に教えたりはしていなかったので、見送りの多さに思わす驚いて、そして嬉しくて涙ぐんでしまった。
 新幹線が出るまでまだ少し時間があったので、私たちはしばらく姦しくしていたものの、出発が近づくにつれて、次第に口数は減っていった。やがて出発の時間になって、私は「それじゃあ」と切り出した。
「向こうでも元気でね。体、壊さないでね」
「お母さんみたいなこと言うね」
「またメールするから」
「そう言って、メールしてきたことあったっけ?」
「頑張って!」
「うん、頑張るよ」
 ひとりひとりと言葉を交わす。笑っていたり、涙ぐんでいたり……。それぞれの反応が、心にしみる。そして、最後は……。
「逸果」
 絵衣子が歩み出る。その後ろには、布が掛けてある大きな長方形の薄っぺらい何か。何か、とは言っても私はそれが何かは痛いほど分かっている。その大きさはこの前絵衣子が学校で描いていたものと、ほぼ同じだった。
「これ……」
 絵衣子が差し出してきたものを、受け取る。それはやはりキャンバスだった。まだ布は取っていないが、手触りで分かる。
「何描いたの?」
 私が訊くと、絵衣子は顔を少しだけ赤らめて、
「ひ、秘密っ」
「え〜っ! 私たちにも見せてよ!」
 途端、周りの子たちからブーイングが上がる。私と同様、このキャンバスに描かれているものが気になるのだろう。この子たちは、今を逃すと見る機会がなくなる。
「ね、いいんじゃない、絵衣子」
「む、むぅ。しょうがないなぁ」
 絵衣子の承諾を得たところで、私は被せてある布を取った。その瞬間、黄色い歓声があがる。そこに描かれていたのは……。
 紛れもなく、私。
 新井逸果の、満面の笑顔だった。
“モチーフなんて、必要ないよ。私はよく覚えているから”
 あの時、絵衣子が言ったことを思い出す。
 …………。
 私はそのキャンバスをぎゅっと握った。
「ありがとう、絵衣子。これ大事にするね」
「ど、どういたしまして」
 絵衣子は恥ずかしがっている様子。それがすごく可笑しい。どうやら他のみんなにこの絵を見られるのはそれほど嫌だったみたいだ。どうしてだろう? 凄く似てるのに。みんなもそう思っているらしく、しきりに感心している様子だった。
「……じゃあ、行くね。みんな、本当にありがとう」
 一区切りついたので、私は改めて切り出した。鞄を持ち上げ、脇にキャンバスを抱える。大きいキャンバスは、ずっしりと重い。その重さはまるで今までの、絵衣子と私の思い出のよう。落とさないように、しっかりと抱えなおす。
 改札に向かって歩き出す。その途中、振り返ると、みんなはまだ、私の背を見送っていた。私はその視線の一つ一つ見つめ返して、精一杯の笑顔と共に言った。
「また、ね」

end



KOTOKO「Imaginary affair」より