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音楽イメージ小説
Birthday eve

 冬の夜の、裂くような冷たい空気が全身に絡みつく。俺は着込んでいたジャケットの前を閉めて、両手をポケットに突っ込んだ。
「大丈夫? 寒くない?」
「う、うん、平気」
 俺の肩にもたれ掛かるように、ちょこんと座っている螢子(けいこ)の吐く息は、彼女の肌のように白い。螢子は空を見上げている。
「……ほぇ〜」
 螢子は呆れたのか感心したのか、よく分からない音を出した。多分、どっちでもないんだろう。
「これを見せたかったんだ」
 わざわざこんな糞寒い中、わざわざ納戸から梯子を探し出して、家の屋根に昇ったのは他でもない。
 この夜空を、螢子に見せたかったからだ。
 この星空を。この雨のように頭上から降り注ぐ、祝杯を。
 田舎の、しかも冬の夜空。星を見るにはもってこいだ。
「ハッピーバースデイ、螢子」
 俺がそう言うと、螢子は照れたように笑って、
「……誕生日は明日だよ、けーちゃん」
「でも、明日じゃもう見れないかもしれないから。だから、今日だ」
「うん、ありがと、けーちゃん」
 螢子がもぞもぞと動いている。やがて、俺の右ポケットに、螢子の手が入れられる。
「けーちゃんの手、あったかいね」
 螢子の手は冷たかった。俺は螢子の手を包むように、握りこんだ。
「だろ? 俺が熱い男だから」
「ばかー」
 屈託なく、螢子は笑う。その笑みには一切のかげりが見当たらない。
 彼女は明日、光を喪う。音を喪う。人の五感のうち、大事な二つを喪う。
 原因は不明だった。医師も出来るだけの治療を施したが、原因不明では限界があった。結果、螢子は視力と聴力を完全に失ってしまうことになってしまった。奇しくも、明日。螢子の誕生日に。
 だから、俺はこうして螢子を屋上に呼び出して、この星空をプレゼントすることにした。この圧倒的に綺麗な星空を。圧倒的でそして、絶望的なまでに綺麗な星空を。
「……すっごく綺麗だね。本当に落ちてきそうなくらい」
「そうだな」
「落ちてきたらさ、食べてみたいよね。お星様」
「……は?」
「おいしそうじゃない? 金平糖みたい」
「バカ」
 俺は笑った。何かを隠すように、かげりを含んで。

 それからしばらく星空を二人で眺めていた。
 螢子は眠たいのか、時々あふ、とあくびをもらしていた。
「そろそろ帰る?」
 俺がそう尋ねると
「やだ」
と、螢子は首を横に振った。
「朝日が出るまではここにいたいな。朝日を浴びて誕生日を迎えるなんて、素敵だよ」
「まぁ、それもそうか」
 螢子が明日の……否、正確には今日のいつ頃、視力と聴力を喪ってしまうのかは分からない。朝が来た時点で、もしかしたら……。
 正直な話、怖かった。螢子が音を喪うのが。螢子が光を喪うのが。
 俺の身に起こることじゃない。だけど、俺の姿や俺の声は、今日を最期にもう螢子には届かない。届かない事が、怖い。
 まだ付き合い始めて、半年だ。俺はまだ、螢子に何も伝えられていない。何も伝えられないうちに、伝える術を喪ってしまう。
 喪うのは向こう。だけど、伝えると言う事は入力と出力の両方が不可欠だから。片方が喪われたら、伝えるという行為そのものが喪われてしまう事になる。
 コミュニケーションの不能。俺が今後、螢子に何かを喋ったとしても、それはただの独り言にしかならない。
 だから、怖い。
 そんな俺の気持ちを余所に、螢子はまるで怯えていないかのように笑っているのだ。俺には少しそれが信じられなかった。
「なぁ、螢子?」
「ん?」
 螢子は小首を傾げて、上目遣いで俺の顔を見てくる。首を傾げるのは螢子の癖だ。俺はその癖が大好きだった。
「お前、怖くないのか? 目が見えなくなって、耳が聞こえなくなって……。この世界の情報がほとんど何も入ってこないのが」
 本当は怖いのは俺だった。だけど、自分が怖いというのは恥ずかしかったから、螢子に答えを求めた。
「んー?」
 今度は反対方向に首を傾げると、螢子は白い息を吐きながら数秒黙り込んだ。
 凛とした、張り詰めた空気が俺の頬を撫ぜた。数秒の沈黙がやけに長く感じた。
 やがて。
「確かに音楽聴けなくなっちゃったりとか、映画見れなくなっちゃったりとかするのはやだと思う。だけど、あたしにとって一番大事なものを喪う訳じゃないから」
 螢子は微笑んでいた。今まで俺が見てきた中で、一番可憐に微笑んでいた。
 一番大事なものを喪う訳じゃない?
「けーちゃんの声はね、きっとあたしの耳が聞こえなくても聞こえるよ? けーちゃんの姿はあたしの目が見えなくても、きっと見える。けーちゃんは、あたしの中にちゃんといるから。一番大事なけーちゃんだけは、他のどんなものを喪ったとしても喪われないんだよ」
 世界は静かだった。まるで俺と螢子しかいないみたいに。まるで俺と螢子以外が喪われたみたいに。
 どこに行ったんだろう? あるいは、ここは日常の果てで、ここには俺と螢子しかいなかったのかもしれない。
「だからね、怖くない。あたしは、けーちゃんがいればそれでいいから」
 …………。
 螢子の、
 螢子の言いたいことは分かる。
 つまり、螢子は世界を俺で満たしているんだ。
 光も音もいらない。ただ、俺だけがあればいい。螢子はそう言っている。
 新しい、“俺だけの世界”に螢子は行こうとしているんだ。
 聴力と視力を喪って。
 ああ……。
 じゃあ、俺は?
「ひゃっ?」
 俺は、自分でも気付かない内に螢子を抱きしめていた。
 もう何度も抱いた、螢子の細い肩。細い腰。柔らかい肌。優しい匂い。
「どうしたの、けーちゃん?」
 螢子の息が耳元にかかって、くすぐったい。たぶん、向こうも同じだろう。体をもじもじさせている。螢子は耳元が弱いんだ。
「分かったよ、螢子」
「?」
「螢子が俺の声を聞くことが出来るんだったら俺はお前にずっと話しかけてやる」
 囁くように、俺は言った。届かないと分かっている言葉は、ただの独り言。だけど、届くと分かっている言葉は独り言なんかじゃ決してない。怖くなんてない。
「うん、いっぱいいっぱい話しかけて」
 むぎゅっ……と螢子が俺の体を抱き返してくる。女の子らしい圧力が心地良い。
「大好きだよ、けーちゃん。大好き」
「俺も……好きだ、螢子」
「あたしね、思うんだ」
「なにを?」
「耳も目も使えなくなっちゃうけれど……だからその分、あたしは大好きなけーちゃんだけ感じることが出来る。他の余分なものは感じなくなるから。だからね、これはあたしにとって、実はすごく幸せなんじゃないかって」
 幸せ? ああ、多分。
 残酷なまでに幸せなことなんだろう。
「だから、怖いというよりはむしろ嬉しいのかもしれない。んー、よく分かんないや。不思議な気持ちだよ」
「どんな気持ちだよ」
 俺は笑った。螢子は困ったような表情を浮かべて
「説明しにくいよぉ」
「しょうがない、螢子はバカだからな」
「むー」
「怒るな怒るな」
「許さないもん」
 ぷくー、っと頬を膨らませる螢子の頭を、俺は撫でてやる。
「どうしたら許してくれる?」
「キスしてくれたら」
「……」
 螢子は微笑んでいた。してやったり、の笑み。俺は軽く溜息をついて
「……喜んで」
 そして、螢子の柔らかい唇に、口付けた。

 俺は考える。
 もし、本当に螢子が新しい世界に行くというのなら。
 それは新しい螢子の誕生ということにならないだろうか?
 世界と人は、一対一対応しているから。新しい世界に行くのは、新しい螢子のはずだ。
 今日は旧い螢子のバースデイだけれど、同時に新しい螢子のバースデイ・イブにならないだろうか?
 そのことを螢子に話したら、螢子は嬉しそうに笑ってくれた。
「だったら、もう一つ余計に誕生日プレゼントもらえるね!」
「バカ」
 俺たちはずっと睦言を繰り返しながら。
 朝日が昇ってくるのを。
 新しい誕生日のイブが来るのを、二人で手を繋いで待っていた。
 

end
SHIHO「Birthday eve」より